福澤徹三『羊の国のイリヤ』
正義のために悪に堕ちる
一億総中流といわれた昭和は遠くなった。
富める者はますます富み、貧しい者はますます貧する時代である。一説には、わずか六十二人の大富豪が全世界の富の半分を所有するという。富の集中による経済格差が広がり続ける一方で、コンプライアンス遵守やリスク回避の傾向が増し社会から寛容さが失われた。正義を振りかざす者たちは常識や倫理を盾に猛烈なバッシングを繰りかえす。それを恐れて社会は自粛と萎縮を続けている。
多くのひとびとは飼い慣らされた羊のように群れをなし、見えない柵に囲まれて身動きがとれない。若者でさえ希望を持てない時代とあって、中高年は一度転落すれば最後、再起の道は閉ざされる。
拙著「羊の国のイリヤ」の主人公、入矢悟は中堅食品メーカーに勤めるサラリーマンだ。年齢は五十歳、妻と大学一年の娘がいる。入矢はワンマン社長が主導した食材偽装をマスコミにリークしたと疑われ、子会社の食品工場に左遷される。工場の労働環境は劣悪で、定年まではとうてい勤まらない。入矢は本社への復帰を画策するが、こんどは冤罪で逮捕される。
入矢は典型的な小市民、すなわち羊である。いままでの人生や将来に疑問を抱きながらも、まじめにコツコツ働いてきた。にもかかわらず転落の一途をたどり、すべてを失ってしまう。そんなとき、娘が悪徳プロダクションにだまされて大金を請求される。入矢は娘を助けるために裏社会へ足を踏みこむが、冷酷非情な暗殺者──四科田了との邂逅によってさらなる窮地に追いこまれる。
入矢にとって娘の救出は絶対的な正義である。けれどもそれを実行するには悪事に手を染め、敵を倒すしかない。正義のために悪に堕ちるという矛盾に入矢は苦しむ。しかも相手は凶悪極まりない半グレ集団や巨大な勢力を持つ暴力組織だ。平凡なサラリーマンだった入矢がそんな連中と戦うのは荒唐無稽だろう。しかし入矢は孤独と絶望のなかで覚醒し、めざましい変貌を遂げていく。
群れからはぐれた一頭の羊が見えない柵を飛び越え、現代社会の闇をどう生き抜くか、見届けていただければ幸甚である。