◇自著を語る◇ 福澤徹三『羊の国のイリヤ』

◇自著を語る◇  福澤徹三『羊の国のイリヤ』

正義を問う

 これを書いているのは二〇二〇年四月二十一日、世界は新型コロナウイルスによる混乱の真っ只中にある。インフルエンザの十倍といわれる致死率に加え、感染予防のための行動自粛が経済を蝕み、恐怖と不安が渦巻いている。

「行動の自粛が誰かの命を救う」

 といったニュアンスのフレーズが世の中にあふれ、多くのひとびとが逼塞を余儀なくされている。誰かの命を救うといわれたら反論の余地はないが、自粛によって失われる命もある。

「正義中毒」や「不謹慎狩り」や「不寛容社会」という言葉がトレンドにあがるように、ネット上では匿名のひとびとが正義を振りかざし「正しくないもの」を糾弾する。

 政治家や官僚の言動から著名人の不祥事まで、彼らの逆鱗に触れたが最後、社会的に抹殺される。企業もマスコミも見えない同調圧力に恐れをなして、現代社会は以前から自粛と萎縮を続けてきた。

 そこへさらなる自粛を強いるコロナ禍が襲来したとあって、正義を振りかざすひとびとは、わが意を得たりと他者の糾弾に余念がない。

 かつて最高裁は「ひとりの命は全地球よりも重い」と判決文で述べた。ダッカ日航機ハイジャック事件では、当時の首相が犯人グループの要求に応じた際、おなじことを口にした。耳には心地よい言葉だが、それを実践するには少数を守るために多数が犠牲にならざるをえない。

 このたびのコロナ禍は、まさにその踏み絵である。「ひとりの命は全地球よりも重い」のならば、新型コロナウイルスが根絶できるその日まで、人類はいかなる犠牲を払っても自粛に耐えるべきだろう。本稿が掲載される頃にはコロナ禍が終息していることを切に願う。

 

 前置きが長くなったが、拙著『羊の国のイリヤ』は正義とはなにかを問う物語である。主人公の入矢悟は五十歳、中堅食品メーカーに勤めるサラリーマンで、妻と大学一年の娘がいる。

 入矢は勤務先の食材偽装をマスコミにリークしたと疑われ、子会社の食品工場に出向させられる。出向先の工場は劣悪な労働条件に加え、派遣やパートに対するパワハラやセクハラが横行していた。義憤に駆られた入矢は派遣やパートを守ろうとするが、社長や幹部たちと衝突して社内で孤立する。

 入矢は子会社での勤務をあきらめ、本社への復帰をたくらむ。ところが身におぼえのない冤罪で逮捕され、自己都合での退職を強いられる。

 入矢は典型的な小市民で、上からの命令には羊のように従ってきた。人生をどう生きるべきかという疑問を持ちながらも常識や倫理を守り、まじめに勤めあげてきた。にもかかわらず会社と妻子に見捨てられ、すべてを失ってしまう。

 そんな入矢に追い討ちをかけるように、ひとり娘が助けを求めてくる。娘は半グレ集団にだまされて大金を請求されている。入矢はなけなしの金を持って交渉におもむくが、かえって事態は悪化する。

 入矢の転落は歯止めがきかない。あげくに生命の危機にさらされるが、冷酷非情な暗殺者──四科田了との出会いによって、入矢はしだいに変貌を遂げていく。

 入矢は娘の救出という正義のために悪に堕ち、半グレ集団や巨大な暴力組織と対決する。荒唐無稽なストーリーだが、十万分の一ミリしかないウイルスでも全世界を震撼させる力がある。平凡なサラリーマンだった入矢が、みずからの世界を変えていく姿をご堪能いただければ幸甚である。

福澤徹三(ふくざわ・てつぞう) 

1962年福岡県北九州市生まれ。デザイナー、コピーライター、専門学校講師を経て、作家活動に入る。ホラー、クライムノベル、社会派サスペンスを手がける。2008年、『すじぼり』で第10回大藪春彦賞を受賞。14年、『Iターン』で第3回エキナカ書店大賞。著書に、「侠飯」シリーズ、『死に金』『東京難民』『白日の鴉』『晩夏の向日葵 弁護人五味陣介』などがある。

書影
『羊の国のイリヤ』

〈「本の窓」2020年6月号掲載〉
◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第93回
思い出の味 ◈ 嶋津 輝