ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第120回

「ハクマン」第120回
人間が死ぬ作品が見たい。
だがフィクションであっても
推しが死ぬのは辛い。

人間は、自分が絶対的安全圏にいるという担保さえあれば残酷さえエンタメとして楽しんでしまえる本性がある。

進撃の巨人なんかの秀逸なところは、起こっていることは凄惨そのものであり重い気持ちになることも多いが「そうは言うても俺は明日突然巨人に食われることがない」という安心感から、何が起こっても最後までエンタメとして楽しめるという点である。

例えフィクションであってもそこに「明日は我が身感」や「おま俺感」を感じてしまうと、急にエンタメとして見れなくなってしまうのだ。
現に闇金ウシジマくんを「どの回にも俺が出てくる」という理由で読めない人は多いし、現在進行形で巨人の脅威にさらされている地域の人は「進撃は1巻でダメだった」となるのかもしれない。

よって、私はできるだけ自分に近くないフィクションを選ぶために「猫が死なない代わりに人間が現実ではありえない方法で3人以上死ぬ話を教えてくれ」と言っておすすめ作品を募集しているのだが、実は人間が3人以上凄惨に死ぬフィクションにも欠点がある。

その3人の中に「推し」が入る可能性があるということだ。
猫の死は最初から回避可能だが「推し」というのは、見ている最中に突然発生してしまうこともあり、推しの発生を見る前に予測することは不可能である。
スラムダンクだって「中学生の時、流川好きだったな」という理由でザファを見に行き、強烈な一之倉沼にハマって帰ってきたりと、推しは突然現れるものなのだ。

 

私はサメ映画のディープブルーでサミュエル・L・ジャクソンが「みんなで協力して脱出しようず!」と大演説している最中にサメに食われるシーンが大好きだが、「このサミュエル推せるわ…」と思って見ていた人にとっては冗談ではない話だ。

何も失うものがない人間を「無敵の人」と呼ぶように、守るものがあると人は強くもなるが弱くもなる、「推し」も心の支えであると同時に、最大の弱点となり、人間をひどく臆病にさせることがある。

フィクションも誰にも感情移入してない状態なら無敵の心で見られるが、だんだん登場人物に愛着がわいてくると、例え巨人に食われるという全く共感しづらい状況でもわがことのように辛く感じてしまうものなのだ。
つまり、推しが出来た瞬間、おキャット様の生死を確認するまで再生ボタンを押せないように、推しの安否が気になって視聴を続けられなくなってしまうことさえあるのだ。

 
カレー沢薫(かれーざわ・かおる)

漫画家、エッセイスト。漫画『クレムリン』でデビュー。 エッセイ作品に『負ける技術』『ブスの本懐』(太田出版)など多数。

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