連載第11回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

映像と小説のあいだ 第11回

 小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
 もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
 ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない――!
 それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
 本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。


『砂の器』
(1974年/原作:松本清張/脚色:橋本忍、山田洋次/監督:野村芳太郎/製作・松竹・橋本プロダクション)

映像と小説のあいだ 第11回 写真1

『砂の器』
Blu-ray:3,630円(税込)
DVD:3,080円(税込)
発売・販売元:松竹
©1974・2005 松竹株式会社/橋本プロダクション
※2023年11月時点の情報です

「そ、そんな人、しらねえ!」

 国鉄の蒲田駅操車場で、初老の男性と思しき死体が見つかる。首を絞められた痕跡があり、その顔や身体は身元を確認できないほど損壊していた。被害者が直前に立ち寄ったバーでの聞き込みから分かった有力な情報は、被害者が東北訛りであることと、同行していた若い男性との会話から聞こえた「カメダ」という名詞だけだった。

 それだけを手掛かりに警視庁の今西刑事と所轄の吉村刑事は捜査を開始。やがて被害者が三木謙一という元巡査であること、そして和賀英良という気鋭の音楽家が容疑者だということにたどり着く。和賀の本名は本浦秀夫。父の千代吉がハンセン病を患ったことで理不尽な差別を受け、生まれ故郷を追い出される。幼い秀夫とともにお遍路姿で全国を放浪した千代吉を受け入れてくれたのが、奥出雲の「亀嵩かめだけ」で駐在をしていた三木謙一だった。

 千代吉は療養所に送られ、秀夫は三木家に引き取られる。だが、秀夫はすぐに行方をくらまし、戦災で役所の戸籍が焼失したのを利用して、「和賀英良」として新たな人生を歩むことに。やがて音楽家として注目され、政治家令嬢との婚約も決まった時、三木が訪ねてきたのだった。和賀は三木と再会し、そして殺害する――。

 以上が、『砂の器』の大枠だ。これは、小説も映画も変わらない。ただ、受ける印象は両者では全く異なる。

 松本清張による原作は、ミステリーとしての比重が大きい。たとえば和賀と同じ芸術グループに参加する関川、宮田という「ひょっとしたら犯人ではないか」と、読者のミスリードを誘うような人物配置。あるいは第二、第三と続く殺人。そして超音波を使った意外な殺害トリック。その真相を紐解いていく今西たちの捜査。文庫版で上下巻の大部分は、そうした謎解きの描写に割かれている。

 だが、映画はそうした箇所をほぼ全てカットしているのだ。関川、宮田は登場せず、怪しい人物は和賀(加藤剛)のみ。殺されるのも三木(緒形拳)一人だけだ。前半では今西刑事(丹波哲郎)による必死の捜査の様子が描かれてはいるが、後半なると今西は一気に「真相」に行き着いており、捜査会議でそれを報告するのみ。そこに至る過程は飛ばされている。つまり、原作にあった「犯人は誰か」「どうやって殺したのか」を探るミステリーの要素を消しているのである。

 そして、代わりに比重が置かれたのが和賀が犯行に至るまでの人間ドラマであり、その格として後半のクライマックスとして描かれるのが、千代吉(加藤嘉)・秀夫による「父子の旅」だった。

「本浦千代吉は、発病以後、流浪の旅をつづけておりましたが、おそらく、これは自己の業病をなおすために、信仰をかねて遍路姿で放浪していたことと考えられます。
 本浦千代吉は、昭和十三年に、当時七歳であった長男秀夫をつれ、島根県仁多郡仁多町字亀嵩付近に到達したのでありました」

 二人の旅は原作では今西の報告を通して、わずかにこう触れられただけだ。だが、それが映画ではドラマのメインに据えられているのだ。

 行く先々で差別され阻害されながら、行く当てのない旅を続ける父と子。四季折々の景色をバックに、慎ましやかに情を通わせ合う二人の姿が感動を呼ぶことになった。

 そして、この旅を感動的に際立たせるために、二つの脚色がなされている。

 一つは、和賀の音楽家としての専門だ。原作では、前衛的な現代音楽で名を馳せているという設定だった。だが、映画ではクラシックの音楽家へと変更されている。そして終盤、捜査会議で今西によってその過去が詳らかになるその同時刻に、新曲の交響曲「宿命」を発表することになっていた。

 この変更が、実に効果的だった。父子の心情を代弁しながら旅の顛末を報告する今西。父を想いながらピアノを演奏しオーケストラを指揮する和賀。そして流れる、哀しい調べ――。これらが重なり合う中で父子の旅が映し出されることで、旅のシーンが感動的に浮かび上がることになったのだ。

 そしてもう一つ、大きな脚色がある。それは千代吉の「その後」だ。原作では事件発生時、千代吉は既に亡くなっている。だが、映画ではそうでない。今西は捜査の末に、今も療養所で暮らす千代吉にたどり着いたのだ。そして、今西は千代吉に現在の和賀の写真を見せる。

 この時、しばらくの間を置いて千代吉が発したのが冒頭のセリフだ。

 離れ離れになった息子にまた会いたい。千代吉はそのことだけを願って生き続けてきた。そして目の前の写真に写っているのは明らかに、成長した息子の姿だ。言葉には出さないが、嬉しいに違いないし、今すぐにでも会いたいに違いない。だが、それはできない。名乗り出てしまえば、自身がかつて受けた差別に秀夫もまた遭う恐れがある。そして、刑事がここに聞き込みに来ているということは、過去に起因する何か事件があったということでもある。だからこそ、千代吉は全ての感情を押し殺し、知らんぷりをするより他になかったのだ。

 この設定の変更によって深まったのは、千代吉自身のドラマだけではない。三木殺害の動機もまた、よりドラマチックなものになっている。

 原作では、和賀は保身のために三木を殺している。自身の過去を知る人間がいては、身の破滅になるからだ。原作の和賀は野心家で、殺人も厭わない、どこか冷酷な部分がある。ただ一方でそれは、受け手にとっては救いでもあった。このような人物ならば、逮捕されても仕方ない。そう思えるからだ。

 だが、映画はそうではない。三木と千代吉は長いこと文通をしている間柄であり、息子に再会できることを心底から望む千代吉の想いを三木は知っていた。だからこそ、和賀の正体が秀夫だと知ると居ても立っても居られなくなり、会いにいったのだ。父親の元へ連れていくためである。

 だが、和賀は父と会うことを拒んだ。父と会えば、何もかもを捨てて父を暮らすことになるだろう。それだけ強い想いがあった。だからこそ、会えないのだ。だが、三木は頑として譲らなかった。あれだけの苦労を共に重ね、今も想い合っている親子なら、再会して当然。そう思っていたからだ。父と会わないためには、三木を殺すしかなかった。その弱さと優しさが故に、旅する父子に唯一温かく接してくれた恩人を殺してしまったのだ。和賀の悲劇性は、原作からさらに高まることになった。

 映画のラスト、和賀の逮捕に向かった今西は、演奏をする和賀を見つめながら、こう言う。

「今、彼は父親に会っている! 音楽――音楽の中でしか父親に会えないんだ」

 映画版は、再び会うことを許されない父子の織り成す「宿命」のドラマなのである。

 なお、本作の脚本を書いた橋本忍がなぜ、どのようにしてこの脚色を創作したのかに関しての詳しい顛末は、十一月二十七日発売の拙著新刊『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)に記してあるので、そちらをご参照いただきたい。

【執筆者プロフィール】

春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。

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