ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第2回
もちろん、全然売れてなくて自分のお母さんしか読んでない状態でもお母さんのために最後まで情熱を持って描き切るという作家もいると思うが、やはり売れてないと作者も若干温度が低くなってしまうことは否めない。
つまり「テンション下がってもいいじゃない、人間だもの」という状態である。
そうなると、出版社に言われるまでもなく「この作品はここが潮時で、新しいものを考えた方がいいんじゃないか」という気になってくる、そんな時に出版社側からも「終了のお知らせ」が来るのが「消極的意見の一致」というものである。
「誰も儲かっていない」という点を除けば、平和的終結と言って良い。
だが、冒頭で「私の作品は全部打ち切りで終わっている」と言ったが、ある意味では1つも打ち切りでは終わっていない。
…という幻覚を見ている、という話ではなく、出版社の編集側は連載を終わらせる時、絶対「打ち切り」という言葉を使わない。
雑誌の編集者が全員サイコパスであることは周知の事実であるが、そんな彼らも「打ち切り」などという、文字通り相手の首を一瞬で飛ばすような言葉は使わない。ヒ素をオブラートで包んだような、もっと時間をかけて死なせるような言葉を使うのだ。
その名も「切り替え」である。
「今の作品はとりあえず一区切りということで、先生にはぜひまたうちで新しいものを描いていただきたい」という言い方をするのだ。
ちなみに「一区切り」とは言うが、どう考えても解散なバンドが「休止」という言葉を使うのと同じで、二クール目が始まることはまずない。
つまり「打ち切り」という絶望を受け入れがたい作家に「次がありますから」という希望を見せて穏便に納得させるのである。
作家を絶望させてはいけないのだ。これは作家のためではなく、絶望した人間は何をするかわからないからである、タダでさえヤケクソな人間が就く代表的職業である漫画家をさらにヤケクソにさせると、リアルポプテピピックになりかねない。
よって私の漫画で打ち切られて終わったものは1本もない、全て「切り替え」により終わっている、だが「切り替わらない」まま縁のなくなった雑誌も少なからずある。