ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第8回
しかし、どれだけ蝶ネクタイを洒脱に結んでいても、局部は局部であり、いかに料理した作品でも「原材料:空想」なことには変わりないので、未だに私は自分が描いた漫画を他人に見られるのが恥ずかしいのである。
恥ずかしいような物を人前に出すな、と言われるかもしれないが、露出狂だって羞恥がないわけではないと思うのだ、むしろ羞恥が残っているからこそ、快感があるのではないだろうか。
そろそろ他の作家、もしくは露出狂から一緒にするなと抗議が来そうなので、この例えはこのぐらいにしておこう。
よって私は「買って燃やしてまた買え」もよく言うが「読まなくていいから面白いとつぶやこう」もたまに言う。
俺の局部を見ずに「すごかった」と感想だけ言ってくれ、と言っているようなものだが、もし見てしまったら口が裂けても面白いとは言えなくなってしまうかもしれないのだ、だったら言える内に言った方が良いだろう、チャンスを逃してからでは遅い。
もちろん読んだ上で面白いと言ってもらえるのが一番うれしいが、それすら正直照れるのだ。目の前で読まれたら恥ずかしさのあまり「見世物じゃねえぞ!」と相手に、薬指と人差し指を用いた本格的目つぶしを食らわせてしまうかもしれない。
しかし、商業漫画というのはそもそも、目の前で自分の漫画を読まれ感想を言われるところから始まったりもするのだ。
商業漫画は、漫画家が考えたことがダイレクトに読者の前に出てくるわけではない。
まずは担当に「こういう絵空事を考えたのですが」と、漫画の元になるネームという物を読ませ「字が読めねえ」等のアドバイスをもらい、終電で帰って来たサラリーマンがサクっとシコって寝る時に使うオカズみたいな話を、商品にまでブラッシュアップして、読者の前に出すのだ。
もちろん、特に修正なし、でそのまま出ることもあるが、この工程を経ないと、泥つきの絵空事がそのまま皆様の食卓にのぼってしまうことがある。
つまりこの「打ち合わせ」の段階で、漫画家は担当に目の前で漫画を読まれているじゃないか、と思うかもしれないが、必ずしもそうではないのだ。