◇自著を語る◇ 周防柳『とまり木』
みずから死を選ぶ、ということについて私が初めて真剣に考えたのは十六歳、高校一年生のときでした。夏目漱石の『こころ』を読んだことがきっかけです。
主人公の「先生」は若き日に友を裏切り、死に追いやってしまいました。それから悔悟の念を抱いて十数年の時を長らえ、その果てに、自分も友のあとを追うのです。
私は「先生」の気持ちがよくわかりました。「先生」があってはならない選択をしたとは思いませんでした。むしろそうするしかすべはなく、採るべくして採ったのだと思いました。だから、読書感想文にこう書きました。
「先生が死を選んだことは、生きる道の一つだった」
誤解を招く言い方かもしれませんが、そのときの私は、たしかにそう思ったのです。
すると、教師にひややかに否定されました。「その解釈は間違っている」。原稿用紙の端に、短く赤字で記されていました。どこがどう間違っているかは、書いてありませんでした。
私の文章がいたらないせいで、虚無的な態度にみえたのかもしれません。あるいは、安易に死を肯定しているようにみえたのかもしれません。しかし、頭ごなしにしりぞけられ、ショックでした。それから私はなぜ死んではいけないかということについて、さらに考えるようになったのです。
「命を粗末にしてはいけない」
と、よくいわれます。しかし、それはしばしばあまり説得力を持たない底浅い説教であるように思います。自分の人生を終わらせたいとまで思いつめている人は、むしろ、命の尊さを知っている気がします。逆に、自分の人生を薔薇色のすばらしいものと感じている人ほど、まま命の尊さに気づいておらぬでしょう。
そもそも、生きとし生けるものの中で、みずから死を選ぶのは人間だけです。ほんとに死んではいけないのなら、なぜ人間はそんな能力を、デフォルトとして持っているのでしょうか。
矛盾しています。釈然としません。けれども、その答えの一端が、あるとき私はふいに見えたのです。
それは、いかに死を望む人が多かろうと、実際に天に召されるのはほんの一部だという事実です。いま、自殺によって亡くなられる方は年間三万弱といわれていますが、未遂の方はその十倍。行為には至らないが死にたいと考えたことのある人を含めると、百倍もいるのです。と、いうことは──?
私は思いました。人間はみずから死におもむく力を神様から与えられた。けれども同時に、みずから引き返す力も与えられたのではなかろうか。だとしたら、いったん死に向かって歩きかけた人が踏みとどまる踊り場のような場所が、この天地のどこかにあるに違いない。
それが、私がこの本で描いた屋上遊園地です。いわば、あの世とこの世のまん中に架け渡された、迷子の鳥たちのためのとまり木です。
──死を選ぶことも、生きる道の一つ。
十六の年に、私はそう思いました。じつのところ、いまもそう思っています。しかし、意味するところはまったく同じではありません。
四十年近い月日のあいだに、生きることがつらくなった人に少なからず出会いました。自分もまた、いく度か生きることがつらくなりました。そうして一周まわった果てのパラドックスとして、そう思うのです。
人は何度でも生き直せると、私は信じています。その力と場所を、神様に与えられているのですから。