“巨人”武田泰淳の自伝的作品『快楽』を、最後の編集担当者・村松友視が語る
武田泰淳の自伝的作品ともいえる、『快楽』(けらく)は、未完の作品にも関わらず、第5回日本文学大賞を受賞した代表作のひとつ。その作品との出会いから、世界観について、作家の村松友視が語ります。
“第1次戦後派作家”のひとり・武田泰淳は、浄土宗の寺の三男に生まれました。東京帝国大学文学部に入学後には左翼活動に没頭し、警視庁に1カ月ほど身柄拘束されたこともありました。
武田自身の自伝的作品ともいえる『快楽』の主人公・柳も仏教僧として、性と政治と宗教という相容れないテーマに心と身体を悩ませていくのです…。
ちなみに、この作品のタイトル『快楽』は(けらく)と読みます。仏典では「快楽」とは、「安楽。永遠のたのしみ。浄土のたのしみ」とあり、一般的に読まれる(かいらく)とは意味が異なってきます。
『快楽』は、武田の病気により未完の作品にも関わらず、第5回日本文学大賞を受賞した代表作のひとつです。
直木賞作家で、当時、中央公論社の文芸誌「海」の編集部員として武田泰淳を担当していた村松友視氏が、P+D BOOKSで復刊した『快楽』のあとがき解説を寄稿しています。
富士山麓の山荘にて、妻・百合子に散髪をしてもらう武田泰淳(撮影:武田花)
『快楽』解説 武田泰淳の体感 村松 友視
『快楽』の連載が「新潮」誌上でスタートした1960年、私は学生の中にたかまってゆくいわゆる〝六十年安保闘争〟といわれる学生運動の熱気とはまったくかかわりない〝ノンポリ学生〟であり、文学への興味などカケラもない〝グータラ大学生〟でもあった。したがって、武田泰淳という作家はもちろん、その作品である『快楽』の連載開始など、そのときの私とはまったく接点のありようがなかった。
『快楽』が、いくたびかの休載や中断のあげく新潮社から単行本として出版されたのは、連載開始から十二年後の1972年10月だが、この時点で私の身分は中央公論社で発行されていた文芸誌「海」の編集部員であった。
私の文学への無関心やグータラ気分は、学生から中央公論社に入社し、編集者となってからも大した変化を見せていなかったが、当時編集局長であった故・宮脇俊三氏の人事異動によって、やがて創刊する「海」編集部へと配属され、創刊号から連載が開始される予定であった、武田泰淳『富士』の担当をふりあてられた。「新潮」誌連載の『快楽』という作品と私とが、十二年の歳月を経て、ようやく点線で結ばれることになったというわけである。
だが、武田泰淳氏は連載がスタートするはずだった創刊号が発行されたあとも、『富士』の執筆に腰を上げようとはしなかった。これは、『快楽』が中断の止むなきにいたっている武田泰淳氏の心もようと、当時の体調のせいであったのかもしれない。私は、担当すべき作品がいまだ書き始められぬ時のながれの中で、赤坂の武田邸への訪問や富士山麓の山荘への行き来を共にしつつ、そこから覗き見るような気分で武田泰淳世界の断片に触れながら、資料部へ行っては「新潮」のバックナンバーを点検し、『快楽』を読んだりしていた。
『富士』の連載第一回の「序章 神の餌」が発表されたのはこの年の十月号であり、それまでのあいだ私は原稿取りをすることができず、『快楽』という作品の不可思議な感触にひたすら首をかしげていたものだった。
私は、武田泰淳氏が『富士』を書き始めるべく原稿用紙の上にペンをかざしたまま、じっと宙を見すえている姿や貌を想像したりして、連載開始が着実にのびてゆくもどかしい気分をもてあそんでいた。そして、そんな中で、ふとひとつの雑念めいた戯れ言が頭に浮かんだのだった。
それは、一切れの羊羹を永遠に食べつづける方法についての戯れ言だった。
やり方は簡単、一切れの羊羹を半分ずつに切って半分を残していく食べ方なのだ。一切れの羊羹を半分に切って食べたら、次に残りの半分をまた半分に切って食べ、半分を残す。そうやって、半分の半分そのまた半分……というふうに切って、つねに半分を残してゆけば、一切れの羊羹の半分は永遠に残り、永遠に食べつづけることができるというわけだ。
だが、そのやり方をなぞってみたところで、そこに残った半分の羊羹はすぐに、さらに半分に切り分けることなど不可能な薄さになっている。抽象的な理屈では成り立つものの、これを現実にこなすなど不可能というもの。超高度な顕微鏡で覗いても目にとらえきれぬほど薄くなり尽した羊羹も、それを半分に切断する刃物も、どちらも存在し得るはずがない。
ほとんどの者は、いい加減なところでそのいとなみを止め、かろうじて残る半分の羊羹をポイと口に入れ、そこでこの問題に決着をつけてしまう。それが、ふつうの人間の知恵とでもいうべきものなのだろう。
ところで、『快楽』の主人公柳は、浄土真宗の大寺に跡継ぎとして生まれた十九歳の青年僧であり、時代は日本が戦争の色に着実に染まりゆく時代だ。この作品に設定された特殊な時代における特殊な環境の中で、他の登場人物との触れ合い、確執などから生じる主人公の想念が、自伝的様相をはらみながら吐露されてゆく。戦争へ突き進まんとする〝異常〟な気配の中で〝日常〟の時をすごす自分をふくむ人間たちの欲、戒律、宗教、仏教、平等、社会運動、信念、思想、行動、歴史などの根本問題が、作者の化身たる主人公である若き僧の呟きと語りによって紡ぎ出されてゆく。さらに、そこに主人公のもつ恥かしさ、強がり、自己弁明、無反省、ときに無意識的……といった特性がかさねられ、作品は独特の呼吸で進行する。
その呟きや語りは、作者の化身たる主人公から紡ぎ出される言葉なのだが、時おり、若い主人公のその言葉をおぎなうかのような作者の想念がかぶさったりもして、作者と主人公が混然一体となって語られてゆく趣きだ。この作者と主人公という、二つの音階が一つの旋律をたどってゆくテイストは、作品全体につらぬかれている。
俗世の快楽(カイラク)から脱け出すことが、仏弟子たる者の快楽(けらく)であり、「身心快楽して禅定に入るがごとし」と教えられた、あのけらくとは、俗人の熱望する「カイラク」と正反対のものである……主人公たる若き僧は、この与えられた命題への反問を反芻してゆく。このあたりで作品と握手しようとしても、主人公は(作者は)その反芻をいい加減なところで止めることなしに、際限なくしかもすこぶる具体的で微細に嚙み砕きつつ、自らの心に生じる疑念を刻々と開陳しつづける。
私は、山頂の見えぬ林の中をさまよいつつ登っているとき、何を目指して歩いているのかがつかめず、登山者はもっとも疲労を感じるという話を思い出した。それは、作者=主人公のかもし出す不思議な旋律、鳥瞰図と虫瞰図の交錯といったややこしさを、どのように受け止めたらよいのか見当もつかぬせいでもあったはずだ。
難解な仏典を嚙み砕いた平易な言葉でていねいに解読されたり絵図で具体的に示されたりすると、逆に難解さがましてしまうことがある。その一瞬は腑に落ちたつもりでうなずいても、やがて鵜呑みの連続に気づいて生じる、あともどりできぬ不安や疲労感や手応えのなさに通じるとでも言ったらよいのか。
あのときの私は『快楽』という作品の、深淵にして膨大な難問が、嚙み砕かれて平易にしかも細密に語られる世界の中で、小説としての受け止め方をついに見つけ出すことができず、〝快楽〟というテーマが読むほどに遠去かってかすんでゆく手応えしかつかむことができなかったのだった。
ところで、私が嚙み砕かれた『快楽』の世界の咀嚼に苦闘しているあいだに、私が担当する「海」における『富士』の連載は、十月号から突然という感じで執筆が始まった。この作品は〝序章〟と〝終章〟に富士山麓の山荘が登場し、〝大島〟という作家と同名人物が登場する以外、作家・武田泰淳の自伝的作品とはあざやかに袂を分かつ、きわめて周到に構築された長編作品として、一度の中断もなく完結した。そして、『富士』は、「極上のビルドゥングス・ロマンかと期待して読んでいくうち、やがて膨張と拡大を修正できぬまま、ついに未完となってしまうのが武田泰淳の長篇小説の一大特徴」といった武田泰淳の文学性の貴重さを十分に理解した上でのエールを込めた定評もくつがえし、しかしいい加減なところで小説と寄り添うこともなしに、文学的虚構作品としての大傑作となって完成したのだった。
これは『快楽』で完成し得なかった問題を、『富士』で完成したことではあるまい。作家・武田泰淳がその晩年に、どちらが表とも裏とも分からぬ、二つの巨大な文学世界を呈示して世を去ったということだろうというのが、中央公論社の資料室でコピーを読んだときから実に四十七年後に、今回あらためて『快楽』となつかしく再対面してみての、私なりの感慨だった。
『富士』は、小説としての構成をいい加減を超えて虚構として見事に完成させた作品であり、長きにわたって『快楽』と取り組んだあげくの成果とも位置づけられる作品だ。『富士』は読んで堪能すべき文学作品だが、『快楽』は武田泰淳という作家の複雑で贅沢きわまりない内なるけしきを、存分に体感する贅沢さにみちた作品である。その意味で、四十七年前に作品を前にした私の苦闘の体感もまた、『快楽』という世界への対し方の一つとして成立するのではなかろうか、と居直りにも似た気分とともに思ったものであった。(作家)
村松友視 Tomomi Muramatsu
1940年生まれ、東京都出身。慶応義塾大学文学部卒業。出版社勤務のかたわら、小説を書きはじめ、1980年にエッセー集『私、プロレスの味方です』で注目を浴びる。1982年に『時代屋の女房』で直木賞、1997年に『鎌倉のおばさん』で泉鏡花文学賞を受賞。『上海ララバイ』『アブサン物語』『夢の始末書』『俵屋の不思議』『贋日記』など著書多数。
おわりに
武田泰淳の代表作『富士』は、表題作『快楽』の次に書かれた作品で、村松氏が編集担当していた文芸誌「海」に連載された作品でした。村松氏は両作品の味わい、組成の違い、そして直接携わった思い出から、武田泰淳という作家の“大きさ”を語っています。
『快楽』は、上下巻建てで、P+D BOOKSにて、電子書籍と紙の書籍でも発売されています。
昭和48年3月、本栖湖畔での武田泰淳(撮影:武田花)
若き仏教僧の懊悩を描いた筆者の自伝的巨編
恥ずかしがりのくせに強がりな十九歳の仏教僧・柳。 大東亜戦争へと向かう昭和10年頃の騒然とした時代を背景に、性と政治と宗教という相容れないテーマに心と身体を悩ます若き仏教僧の悲喜こもごもを描いた長編小説の上巻。
厳しい戒律の中で煩悩に悩む若き仏教僧・柳
若き僧侶・柳は布団の中でひとり悶々と思う。「宝屋夫人がしまいこんでいる快楽の要素を、すべて引き出してしまわないうちは、人生の味は感得できないのでは」と。やがて教団活動と左翼運動の境界に身をおく柳は革命団体の分裂抗争にも巻き込まれていく。模索する人間の業、そして集団悪――。柳の精神は千々に乱れる。長編小説の下巻。
初出:P+D MAGAZINE(2016/10/14)