滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 第6話 太った火曜日②
わたしはいつしか魔法も奇跡も信じない大人になった。
けれど、周りにはいつも「信じる人」がいた。
こんな、7つのときの神様との決別から紆余曲折(うよきょくせつ)があって、いつしか魔法も奇跡も信じない大人になり、信仰心は霞(かすみ)みたいに薄れていったけれど、周りにはいつも信者がいて、そして、身をもって知ったのだけれど、世の中には、信じる人と考える人がいる。「信じる」という行為の対象は、宗教に限らず、政治理念でも、お金でも、何でもあり得る。信じる人は、必然的にドグマチックだけれど、強い。そして、だからこそ、世の中には、信じなければいられない人だって、いる。
頭が海綿みたいにやわらかいと思っていた自分が、実はかなり思い込みの激しい人間であると知ったのがつい最近だったのも、やっぱり思い込みのせいだったのだけれど、その、思い込みのせいで、信仰心の厚い人は、心が広く、あたたかく情け深い人だと長いこと思い込んでいた。そんなこと、周りにいた信者どころか、神父やシスターを見ても、絶対にないってことぐらいわかっていていいはずだったのに、いつまでもしつこくそう思っていたのは、そう思いたかった、からかもしれない。
シスターや神父は、大概の場合、普通の人より特に心が麗しくも、特に高貴でもなかったし、むしろ、世間の標準からしてみたら、了見が狭く、頭が固かった。中には、神様を愛するように人間を愛せない聖職者だっていたように思う。ひょっとしたら、神様を愛するあまり、下々の人間などかまっている暇とか余裕とかがなかったのかもしれないし、神様にお仕えすることで満足してしまって、ほかのことまで配慮がいかなくなったのかもしれない。今から思えば、神父やシスターだってしょせん人間なんだから完璧であるはずがないし、好き嫌いや偏見もあるだろうし、胸の中にいろいろな葛藤も持っていて当然なのだろうが。神を信じるにはよい人間である必要はないけれど、よい友人やよい親、よい先生になるには、よい人間でなければならないような気がする。
神様を頂点にした雛壇(ひなだん)に社会的地位の高い順に人を並べている気配のジェンナは、どう見ても愛するのは人でなく、おカネなのだが、たいそう敬虔(けいけん)なカトリック教徒で、毎週、教会に通っている。彼女は、ミサに行くと、とてもすがすがしい、いい気分になれると言う。わたしだって、ふと教会に行ったりなんかすると、何ひとついいことはしていないのに浄化されて、善人になったみたいな錯覚に陥る。というか、何か悪いことをしても、教会へ行けば何でも許されてしまうような気さえする。教会の中の空気には、免罪符的なホコリが漂っているのだと思う。困ったことである。
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