滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 第6話 太った火曜日①
ハーレムの子供保護センターにいた日本人女性も、
いろいろな心痛を抱えて生きていた。
半年ほど前のこと、いきなり、ハーレムに行ってくれ、と福祉団体から電話がかかってきて、ハーレムの子供保護センターに行ったことがあった。アポの時間よりずいぶん遅れて現れたのは、オリーブ色の肌をして、髪をストロベリーブロンドに染め、ベアショルダーのかなり派手派手しい格好をした日本人女性で、幼い男の子を連れてきた。男の子はチョコレート色の肌をしていたから、夫は黒人らしかった。
ソーシャルワーカーとの間に入って話を聞くうちにわかったのだけれど、オリーブさんの夫は性犯罪を犯して何度も逮捕された過去があった。そして、オリーブさんは夫の逮捕歴を知らないのかと思いきや、ちゃんと知っていた。今回は、17歳の女の子に手を出したうえに負傷させて入所中、ということらしい。仕事にもつかず、オリーブさんを働かせ、その間、いろんな女性とねんごろになっているという、とんでもない男であった。
最初のうちはまだよかったのだけれど、ソーシャルワーカーが夫の素行を次々と暴いていくうちに、オリーブさんはだんだん感情的になっていって、「わたしは、ほかのだれにもわからないこともわかっている、夫が女性と付き合ったのは、それなりの事情があったということも、ちゃんと理解している」と言い、「過去のことはどうでもいい、だいじなのは今からのことで、夫が何をしたかということなんか、どうでもいい」と、夫は、過去完了でなく、現在進行形で複数の女性と関係を持っているのに、懸命にかばった。
オリーブさんは、しまいに泣きだし、壊れたCDみたいに、「わたしは実践する仏教徒だから、夫を信じる」と涙ながらに言い張った。ピジン・イングリッシュであったけれど、相手にことばを挟ませない勢いでまくしたてるオリーブさんを前に、オリーブさんが信じていること、もしくは信じたがっていることを「そうではないですよ」と反駁(はんばく)するのは酷であったから、ソーシャルワーカーもことばを失ってしまった。
仏教徒であることと不貞をはたらく夫を信じることにどういうつながりがあるのかわからないが、何にしても、オリーブさんがあれだけ泣いたのは、自分の言っていることが虚(むな)しいのを心のどこかで知っていて、情けなくなったのではないかと思う。オリーブさんはトータル・ディナイアル(完全否定)モードに入っていた。
セッションのあと、ソーシャルワーカーが、オリーブさんのアパートの隅には祭壇があって、お香をたいているので、仏教徒だということは知っていた、と言った。
オリーブさんの仏壇は、何となく想像できた。日本の家にあるような仏壇でなく、ブッダの絵を壁に飾り、ハーレムの路上で売られている、あまい人工的な匂いのするお香をたいているのだろう、そして、ご先祖様を供養するというよりも、毎日、仏様にすがって、心のよりどころを求めているのだろう。身寄りのないアメリカで、夫のほかにすがる人がいないのに、その夫もすがれないどころか、オリーブさんをないがしろにして女に走っている。オリーブさんの心の中は波風が立ってざわざわしていて、そのざわざわを治めるためには、仏にすがって救いを求めるしかないのだろう。全身全霊で仏様に祈願するのが、オリーブさんの「実践する仏教徒」ということなのではないかと思う。自分の力ではにっちもさっちもいかないとき、信仰に頼って、自分の外にあるものに救いを求めようとするのは理解できる。
世の中にはいろいろな頭痛や心痛を抱えて生きている人がいる。中には、想像もできないような、壮絶な体験をしている人もいる。
- 1
- 2