思い出の味 ◈ 井上荒野

第37回

「鶏鍋の謎」

思い出の味 ◈ 井上荒野

「あぶたま鍋」もしくは「とりたま鍋」と呼んでいた。どちらだったかも、もうわからない。母がどこかで覚えた鍋だった。ほとんど家から出ない人だったから、雑誌か何かでレシピを見たのか、あるいは父と一緒に食事の招待を受けるという年に数回程度のめずらしい機会に、どこかの料理屋でそれを食べたのか。

 その鍋が食卓に上がるようになったのはいつからだったろう。もちろん私がまだ実家で暮らしていた頃で、妹もいて、両親ともに健在だった頃。といって、ものすごく昔、というわけでもない。私は二十八歳のときに家を出てひとり暮らしをはじめたのだが、たぶんそれより二、三年前。私が二十代半ばの頃だろう。

 鶏のもも肉を、四人前で大きめを二枚くらい。皮と脂をできるだけ丁寧に取り除いたら、包丁で叩いて細かくする。そこに葱三本分くらいのみじん切り、玉子を二、三個加えて混ぜ合わせる。これがタネ。

 すき焼き鍋に、すき焼きの割り下より少し薄めにした出汁を二センチくらい張り、沸いたら、タネをペタペタと鍋肌に塗りつけるようにして火を通す。煮えたら、玉子をつけながら食べる。玉子の摂取量がすごいことになるのだが、とにかくおいしいのである。

 実家にいるとき私はまったく料理をしなかったので、結婚してから、この鍋の詳しい作り方を聞くために母に電話した。でも、ルーツが知りたい、と思ったときにはもう父も母も亡くなっていた。ネットで検索してみたが、「あぶたま鍋」でも「とりたま鍋」でもそれらしいものはヒットしない。だからこの鍋と母のかかわりは、私にとって永遠の謎になってしまった。

 自分で作るこの鍋の味が、母の味と大きな隔たりがあるとは思わない。だからルーツがわからなくてもべつに困らない。そう考えてみるけれど、「どうしてもわからない」「それを私に教えてくれる人は、もうこの世のどこにもいない」ということが、ひどく切なかったりする。そして人生というのは案外、そういうものでできている気がする。

 

井上荒野(いのうえ・あれの)
1961年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒。89年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞しデビュー。08年『切羽へ』で第139回直木賞受賞。近著に『ママナラナイ』『そこにはいない男たちについて』など。

〈「STORY BOX」2020年11月号掲載〉

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