著者の窓 第1回 ◈ 梨木香歩 『炉辺の風おと』
『西の魔女が死んだ』『家守綺譚』などの幻想的な小説や、『春になったら莓を摘みに』『水辺にて』などの自然をテーマにしたエッセイで多くの愛読者をもつ梨木香歩さん。最新作『炉辺の風おと』は、数年前からの八ヶ岳の山小屋暮らしをきっかけに生まれたさまざまな思いを綴るエッセイ集。人と家、地球と環境、愛する家族との別れ、そして孤独であること――。〈新しい日常〉を生きるわたしたちに多くの示唆を与えてくれるこの本について、梨木さんにインタビューしました。
前の所有者の素朴な生き方が伝わる山小屋で
──そもそも梨木さんが八ヶ岳での山小屋暮らしを始められた理由は、何だったのでしょうか。
自然の中に身を置く場所がほしかった、ということでしょうね。山小屋自体は、ほんとにささやかなものですが、九州の霧島などにも持っているんです。ただ九州だと頻繁に足を運ぶことはできませんし、東京から気軽に出かけられる場所に、もうひとつ拠点が必要だなと思っていました。それであちこち有名な別荘地も見てまわったんですが、わたしには賑やかすぎるように感じられたんですね。その点、八ヶ岳の別荘地は里山と原生林のちょうど中間くらいで、人もそれほど多くなく、いいかな、と思ったんです。
──入手された山小屋は、前の所有者の「幸せな思い出がいっぱい」感じられる家だったそうですね。
そうなんです。家って一歩足を踏み入れると、前に住んでいた方の趣味や考え方が伝わってきますよね。家自体の建て方や、置いてある調度品などから。八ヶ岳で出会った山荘は、前の所有者の方の素朴で、正直な生き方が伝わってくるような家でした。たとえば釘一本打つにしても、「ここには釘が必要だよね」という場所にきちんと打ってあって、仕事が丁寧なんですよ。食器にしても高価なものではないけれど、ここにあってほしいなと思うセンスのものが置いてある。どこか外に開かれていて、ウェルカムな感じがしたのも入手の決め手になりました。
──このエッセイでは、家と人の関係について何度か述べられています。ある大学教授が遺した邸宅の購入を検討されるエピソードも、印象的でした。
フランク・ロイド・ライトの最晩年の弟子である、遠藤楽氏が設計された家でした。夫婦二人暮らしに過不足のない、質素な家でしたが、いつまでも観賞していたいと思えるものでしたが、そこに住むとなるとまた違うんですよね。完成され過ぎていて、わたしの入っていく余地がない感じがしたんです。ただ自分が入手しなければ、取り壊されて更地になることが分かっていたので、それでいいのかずいぶん悩みました。もしわたしに無限の資力があれば、こんなことを気にせずに保存することができたんですが……。現実はそうもいかないですから。
──ところで著作の印象から梨木さんはあまり物を持たず、シンプルに暮らされているイメージがあるのですが、いかがですか。
本当はそれが理想なんですけどね、かれこれ六十年も生きていると色んな物が溜まってきます。わたしがイギリス留学時代に出会った下宿の女主人はクエーカー教徒で、質素に生きることを理想にしていましたが、それでも家中に物があふれていました。しかもそれらは不要品ではなく、ひとつひとつ物語や歴史を持っているんですよね。昨今は物をなるべく持たないライフスタイルがもてはやされていますが、手放した物は結局ごみとなって、地球環境を汚染してしまう。だったらわたしが生きている限りは、身のまわりの物くらい今しばらくここで引き受けて、少しでもゴミ収集所の山になるときを伸ばしたいという思いもあります。
──エッセイの中でも、使い捨て生活から「非効率」な暮らしへの方向転換が説かれていました。
どんなものだろうと試しにフードデリバリーを利用してみたのですが、これでもかっていうくらい使い捨て容器が入っているんです。この流れを止められないのだとしたら、使い捨て容器でも最低三回は使うとか、せめて自分の中でのルールを保って、環境破壊の速度を緩めるしか方法がないのかなと思っています。一かゼロかではなく、その中間でもできることがきっとあるので。
火を熾すことは、内面と対話すること
──小屋を訪れる動物のこと、身近に生えている植物のこと。梨木さんの日々の発見が生き生きと綴られていて、八ヶ岳の豊かな自然を追体験できます。
これまでもバードウォッチングは好きだったんですけど、たとえばシジュウカラが出てきても「シジュウカラだな」と思うだけだった。八ヶ岳に行くようになって、同じ種類でも個体によって差があることを知りました。小屋に来るリスにしても、去年来たリスと今年のリスでは性格が全然違います。テンが人を化かすと言われるのも、八ヶ岳に行くようになって初めて納得できました。魔界に人を引きこむような、怪しい目つきをしているんです。動物についても植物についても、知らなかったことは山ほどあります。
──動植物を観察したり、山菜や茸を採ったりと、山小屋での暮らしもなかなかお忙しそうですね。
仕事もしなければと思うんですが、家まわりのことをしているだけで夕方になっています。山小屋のテラスの礎石の上に、こぶし大の石が二つ置いてあるんです。おそらく前の所有者のご家族の一人が見つけて、おや、これは珍しい、とある日何気なくそこに置いたんでしょうね。確かに縞模様の変わった石で、並べて置きたくなる気持ちは分かるんです。庭には野生の鹿も来るし、職人さんたちも出入りするんですが、その石だけはなぜかいじらないでそっとしておくんです。激しい雨も、風も含め、かつてそこにあったかけがえのない時間を、みんなで大切に守っている気がして、そういうのはとてもいいなあと思います。そんなことをぼんやり考えていると、あっという間に一日が終わってしまう(笑)。
──鳥も獣も人間も、みな「地球という大きな庭」の一部である、という自然観が紹介されていました。こうした考えは八ヶ岳での暮らしの中で育まれたものなのでしょうか。
二〇一七年に『わたしたちのたねまき』(キャスリン・O・ガルブレイス作、ウェンディ・アンダスン・ハルパリン絵、のら書店)という絵本の翻訳をしたのですが、あの本のコンセプトがまさに地球はひとつの大きな庭、というものでした。ただ同じことは以前からずっと感じていたと思います。人間も自然の一部であって、それ以上のものではない。自然を知れば知るほど、そう考えざるを得ません。これはわたしがわたしであることの一部のような、根本的な考え方です。
──その一方で、「全くの自然のなかに入っていくとき、なにかしらの悪意のようなものを感じる」ともお書きになっています。
自然ってどこまでも無情で、人間には無関心なんですね。どんなに山を愛している登山家であっても、自然は容赦なく命を奪います。自分を大切にしてくれるから助けてやろう、などと思わない。以前、北海道の富良野で、三十年以上人が足を踏み入れていない原生林に入らせていただく機会があったんですが、木々がいっせいにこちらを注視しているのを感じました。まったく別のコンテクストで成り立っている空間に、無防備に入りこんでしまった気がして、あれはぞくぞくしました。
山の中には邪気を感じるところもあれば、神聖な気配を感じるところもあります。うまく言葉にはできないんですが、何かがあるように感じられる場所。昔の人はわたしよりもっと鋭敏に、そのパターンを区別できたでしょうし、祠などが建っているのはそうした場所なのだと思います。
──薪を焚き、火を熾すことの難しさや喜びについても、体験を交えつつお書きになっています。山小屋暮らしならではの題材ですね。
燃えている火には否応なく惹きつけられるところがあります。山暮らしの先輩方にはそんなに大仰なものではないよ、と言われるかもしれませんが、火と付き合うことに意味を見出したいという思いもありますね。必要に迫られて火を熾していた時代の人からしたら、趣味的で情けない話なんですけど。火にはどこか自分の内界が投影されているような気がして、それで好きなのだと思います。
──なるほど、タイトルの『炉辺の風おと』にもそんな響きがありますね。
内省的で、静かなエッセイ集にしたいという思いは、当初から持っていました。計画通りに進められるタイプではないので、日常や世の中に引きずられて、途中から色んな話題が入ってきましたけど。
孤独であることで、自分自身が満たされてゆく
──本書の新聞連載期間中、お父さまがご自宅で亡くなられています。お別れの数時間を梨木さんは「人生で最も大切な、『神話の時間』であった」と表現されていました。とても心に残る言葉でした。
父の死については、入院していた病院の対応への疑問もあって、いまだにうまく言語化できていないところがあります。ただ、連載を読まれていた九十代半ばの読者の方が、これ以上の長生きを望んでもいいのかと迷っていたところに、「神話の時間」という言葉に出会って、生きる決意が固まった、というお手紙をくださって。それがものすごく嬉しかったんです。父は亡くなったけれど、代わりの命が力を得て、どこかで生きていてくれる。父の死は無駄ではなかったんだ、と思うことができました。
──「孤独であることは、一人を満たし、豊かでもあること。そしてその豊かさは、寂しさに裏打ちされていなければ」(「冬ごもりの気持ち」)。梨木さんはこの本の中で、くり返し孤独であることの大切さを説かれています。
新型コロナウイルスの流行で、人と同じであることがますます求められる世の中になっています。だからこそ、孤独を手放してはいけない。かけ声の大きい人に影響され、流されるのではなく、自分の内面と対話することがこれまで以上に必要だと思うんです。内界に降りていこうとすれば、一見、人とのコミュニケーションは遠ざかっていきます。見ようによっては孤独な生き方ですが、内界へ深く降りれば必ず、多くの人の内界とつながる場所に出るときがあります。そういう経験が、結局自分自身を満たしてゆく、豊かな旅になると思っています。
──自然の中に身を置かれるのも、孤独を求めてのことでしょうか。
それもありますね。雑音が入ってこないので、内界に目を向けやすくなります。わたしは鳥や木が好きなのでそうしていますが、都会の中でもそういう状況は作り出せると思います。以前「ぼっち」という言葉が流行りましたけど、それって全然悪いことではなくて、むしろ人のあり方としては潔い、素敵なものだと思います。群れをなさないっていうのは、それだけエネルギーがいることですから。ぼっちは格好悪くないですよ。これからは「ぼっち」が基本になるのではないでしょうか。
──八ヶ岳での山小屋暮らしで、梨木さんが一番感動されたことは何ですか。
空気が、都会とは全然違うんですね。木の出す匂い、茸が土に還っていく匂い、どこかで生きものが腐っている匂い。さまざまな匂いが混じり合って、ぴんとした緊張感を孕んでいるんだけど、爽やかなんです。そろそろ雨が降り出しそうだな、とか五感を超えた何かを感じる機会が、これまでよりもずっと多くなった気がします。全身の細胞が活性化されていくような感覚があって、気持ちがいいですね。人から見たら、ただ山の中でぼーっとしているだけなんですけど。
──『家守綺譚』など、動植物の豊かな世界に目を注いだ作品を書かれてきた梨木さんですが、八ヶ岳での暮らしも今後の創作に影響を与えそうですか。
それは絶対にそうでしょうね。何もないところからフィクションの世界を作りあげるほど、わたしは器用ではありません。身のまわりにあるものを手がかりにして、それを物語に編み込んでゆくという書き方しかできないので、きっと八ヶ岳での山小屋暮らしも作品の素材になると思います。具体的にどんなものを書くかは、これからですね。実際に書けるかどうか分からないので、あまり大きなことは言わないようにしておきます(笑)。
梨木香歩(なしき・かほ)
1959年生まれ。『西の魔女が死んだ』で日本児童文学者協会新人賞、新美南吉児童文学賞、小学館文学賞を受賞。他の小説に『裏庭』『家守綺譚』『僕は、そして僕たちはどう生きるか』『冬虫夏草』『椿宿の辺りに』など。エッセイに『春になったら莓を摘みに』『ぐるりのこと』『水辺にて』『渡りの足跡』『風と双眼鏡、膝掛け毛布』など。他に『岸辺のヤービ』『ヤービの深い秋』『私たちの星で』『ほんとうのリーダーのみつけかた』などがある。
(インタビュー/朝宮運河 撮影/梨木香歩)
〈「本の窓」2020年12月号掲載〉