思い出の味 ◈ 大沼紀子
第42回
「五平餅」
四十歳を過ぎたあたりから、時おり無性に五平餅を食べたいと思うようになった。五平餅というのは中部地方の山間部に伝わる郷土料理だ。
中部地方の山間部は広い。そのため五平餅は、地域ごとに少しずつ姿を変える。草鞋型の胡麻だれや、円形の味噌だれ、団子型の胡桃だれ、なんてのもある。
そんななか、私が思う五平餅ははっきりとひとつ。ラケット型をした荏胡麻だれの五平餅だ。
味にうるさいほうではないが、他のものを食べても五平餅を食べた気にはなれない。きっと子ども時代に、よく食べていたせいだろう。私の祖父母は五平餅屋を営んでおり、幼い時分、祖父母宅で多くの時間を過ごしていた私は、おやつとしてしょっちゅう五平餅を口にしていた。
祖父母の五平餅は評判がよく、店はけっこうな繁盛店だった。売り切れのため、午前中で店じまいすることもままあったほど。けれど私は祖父母の五平餅に全くありがたみを感じていなかった。荏胡麻の味に飽きたからと、醤油味の五平餅をねだることもしばしばだった。それほどに、いつもそばにある味だったのだ。いつか食べられなくなるなんて、そんなこと想像もしていなかった。
あれから幾星霜。祖父母は亡くなり、店はたたまれた。当たり前に食べられた五平餅は、もう、ない。
でも無性に食べたくて、自分で作るようになった。門前の小僧習わぬ経を読むとはよく言ったもので、祖父母の姿を思い出しながら作ってみたら、案外ちゃんと昔食べていた五平餅になった。
焼かれた荏胡麻だれには、ナッツに似た香ばしさがある。頬張ると口のなかにその素朴で豊かな香りが広がる。同時に砂糖と醤油の甘じょっぱい味が舌の上で溶ける。思わず口元が緩む味だ。
そしてそういう瞬間に、思い出すことも知った。祖父母の店にあった火鉢や、窓から見えていた雪景色、並んで五平餅を焼く祖父母の姿なんかも──。
思い出の味は、もうないものやいない人を連れてくる。だから時おり、無性に食べたくなるのかもしれない。
大沼紀子(おおぬま・のりこ)
1975年岐阜県生まれ。2005年「ゆくとし くるとし」で第9回坊っちゃん文学賞を受賞しデビュー。「真夜中のパン屋さん」シリーズはドラマ化もされた。他の著作に、『ばら色タイムカプセル』『てのひらの父』など。
〈「STORY BOX」2021年4月号掲載〉