思い出の味 ◈ 石田衣良
第44回
「一杯百円、浦安のラーメン」
思い出の味というと圧倒的に安価なたべものが勝利するのは、なぜだろう。一人前五万円もする鉄板焼きとか、冬のふぐ尽くしのコースとか、その手のご馳走はまず頭に浮かんでこない。まして、海外でたべたごにょごにょと長い名前のなんとか風のひと皿なんて、記憶のかなたに消えてしまっている。
このテーマで最初に思い出したのは、一杯百円の浦安のラーメンだ。今から半世紀も昔、東京ディズニーランドができる以前の浦安に、小学生のぼくはよく遊びにいっていた。クラスの友人たちと待ち合わせをして、自転車でちょっとした冒険旅行にでかけるのだ。
運河沿いの道を走ったり、当時一大ブームだったボウリング場にいって、何ゲームか遊んでみたり。普段暮らしている街とはまったく違う、別な土地の空気感を味わうのが、大人になった気分で誇らしかったものだ。当時の浦安にはまだ東京湾の漁師町の雰囲気が残っていて、駅からすぐ近くの川にも漁船がたくさんつながれていた。夕日を浴びて群がる小舟の淋しさに、胸が締めつけられるような思いをしたのを覚えている。
その冒険の帰り道に立ち寄る定番の駄菓子屋があった。中年のおばさんが切り盛りしているちいさな店で、菓子類だけでなくラーメンも供していた。といっても本格的なものではなく、一番安い生麺タイプの市販品を店先に置いたカセットコンロで手早くつくるという下町の駄菓子屋スタイルで、当時にしても圧倒的に安い一杯百円という価格だった。
ぼくたちは店先に自転車を停めて、ジュースのケースに座り、ネギの切れ端がすこしだけ浮いているひどく熱いけれど、そっけないラーメンをたべた。みな半ズボンで、足は白く粉を吹いていた。子ども心にも一杯百円ではぜんぜん儲からないよなあ、と心配しながら。今でもあのラーメンがおいしかったのか、まずかったのかよくわからない。ただ記憶に刻まれた忘れられない味で、もしタイムスリップできるのなら、百円玉を握り締め、またあの淋しい駄菓子屋の前に立ちたいと願うだけだ。
石田衣良(いしだ・いら)
1960年東京都生まれ。成蹊大学卒業。97年「池袋ウエストゲートパーク」でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。2003年『4TEEN フォーティーン』で直木賞、06年『眠れぬ真珠』で島清恋愛文学賞を受賞。
〈「STORY BOX」2021年6月号掲載〉