思い出の味 ◈ 河野 裕

第47回

「父と鱒寿司」

 私は徳島県の出身で、幼いころは長期休暇の度に、大阪で暮らす祖母のところまで遊びに行った。当時はまず船で和歌山に渡ってから電車で大阪に向かうルートが定番だった。

 船内には座席の他に、寝転がって過ごせるよう、床が絨毯張りになっている区画があった。その絨毯の上で、なんとなく即席の縄張りみたいなものを確保すると、父が決まってくたびれたボストンバッグから、港の売店で買った鱒の寿司を取り出した。どうやら富山県の郷土料理らしいから、今思えば、徳島から和歌山に向かう船での食事には少しずれているような気もする。

 鱒の寿司は大きな円形の押し寿司で、付属の白いプラスチック製のナイフで切りわけて食べた。それが誕生日のホールケーキみたいで、特別な感じがしたけれど、味はよく覚えていない。なのになんとなく「美味かった」という気がするのは、やはり父の影響だろう。

 父は決して美食家ではなく、家では母が出すものをとくに感想も言わずに食べていた。最後に「ごちそうさん」とだけ言って席を立つ人だった。酒は好きなようだが、食事には興味がないのだろうと思っていたのだが、鱒の寿司に関しては毎度「美味いだろ」としつこく訊いてくるものだから、私の方も、これはよほどありがたい食べ物なのだなという気がしていた。

 食事を終えると、たいてい私は寝転がって、初期型のゲームボーイで時間を潰した。船の備品に、妙に硬くて四角い枕があり、それを使うのがなんだか大人びて感じた。乗下船のとき、少し不安定なタラップを渡るのが、どきどきして好きだった。

 この船での移動の習慣は、私が中学生のころに途絶えた。明石海峡大橋が開通し、高速バスで徳島から大阪まで直接移動できるようになったのだ。

 高速バスは早くて効率的だった。でも、移動中に食事をすることも、父の場違いに誇らしげな「美味いだろ」という言葉を聞くこともなくなったのが、少し物足りなかったようにも思う。

 

河野 裕(こうの・ゆたか)
徳島県出身。2009年『サクラダリセット CAT, GHOST and REVOLUTION SUNDAY』で角川スニーカー文庫よりデビュー。他著作に『いなくなれ、群青』に始まる「階段島」シリーズ、『昨日星を探した言い訳』など。

〈「STORY BOX」2021年9月号掲載〉

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