桜庭一樹さん『小説 火の鳥 大地編』

桜庭一樹さん『小説 火の鳥 大地編』

手塚先生の〝それでも生きていく〟という芯の部分に忠実でなくてはと意識しました

 巨匠・手塚治虫の代表作のひとつとして今なお愛されている『火の鳥』。「黎明編」「未来編」などさまざまなバージョンがあるが、「大地編」は構想だけが残された幻の作品。それがこのたび、桜庭一樹さんの手によって小説化され、『小説 火の鳥 大地編』として刊行された。そこに至る経緯はどのようなものだったのか。


2年前、小説化を依頼されて仰天する

「この2年間、資料ばかり読んでいて全然小説を読んでいないんです。仕事と無関係に読んだものは中国SFの話題作『三体』くらいかな」

 普段は一日に数冊読むほどの読書家、桜庭一樹さんがそんなことを言うとはただごとではない。実際この2年間、ただごとではない状況にあった。手塚治虫の代表作、『火の鳥』の「大地編」の小説化に取り組んでいたのである。古代から未来まで、さまざまな時代・場所を舞台にした壮大なシリーズだが、この「大地編」はたった原稿用紙2枚と5行のシノプシスだけが残された幻の続編。それをもとに、桜庭さんが書き上げた『小説 火の鳥 大地編』は朝日新聞の別刷りで2019年4月から2020年9月まで連載され、このたび書籍化された。小説執筆の依頼があったのは、2018年の10月だったという。

「打ち合わせに行ったら、普段なら編集者一人のところ、何人もおられて驚きました。『火の鳥』と言われて文庫化の解説の依頼かなと思ったら、小説を書いてほしいと言われて仰天しました」

 連載開始予定は半年後。やるならすぐに着手しなければならないと、一日ほど考えて「やります」と答えた。

 シノプシスにあったのは、「序幕」のタクラマカン砂漠をさまよう猿田博士の様子、「第一幕」の日中戦争の勝利に沸く1938年、上海の超一流クラブの情景だ。主要人物として言及されるのは関東軍司令部付き副官の間久部緑郎少佐、彼の妻で三田村財閥会長・三田村要造の娘の麗奈、謎の女性、緑郎の弟で中国共産党のスパイの正人など。完成した小説を読むと、たった2枚あまりのこのシノプシスからここまで壮大な物語を生み出したのかと驚くが、桜庭さんは言う。

「よく読みこむと、やっぱり手塚先生は天才なのだと、強い衝撃を受けました。短い中にじつは必要なものが全部入っている。上海、満州、日本が舞台になり、主人公がシルクロードに旅立つことも分かるし、日中戦争の時期から始まるということは、太平洋戦争終結までの近代史を内包した大きな物語になるはず。ラストシーンも、シノプシスから考えてこれしかないというものを自分なりに推測しました」

桜庭一樹さん『小説 火の鳥 大地編』
新疆ウイグル自治区にて

 桜庭さんは素材を解析し、緻密にプロットを組み立てるタイプだ。今回の場合、ここからストーリーをどう組み立てていったのか。

「『火の鳥』は、『黎明編』と『未来編』のプロットがどちらもY字のラインになっているんです。ふたつのグループがあり、それぞれが火の鳥と関わり、やがて二グループの運命がぶつかる。そして片方は死に、片方は火の鳥と邂逅する。他の作品は別のパターンとなっていますが、この代表的な二編のプロットラインを守って書けば、『火の鳥』らしい物語になるのではないか、と考えました」

 桜庭さん自身も、小学生の頃からこのシリーズが好きだった。

「学校の図書室にあった『火の鳥』シリーズは全部読んだし、その後、未読のものは探して読みました。5年前から朝日新聞社主催の手塚治虫文化賞の選考委員をつとめているのですが、選考会の後に〝手塚作品で何が好きか〟という話になった時、私は『火の鳥』だと話したんです。朝日新聞の社内で『大地編』の企画が持ち上がった時に編集者さんがそれを思い出してくれて、私に依頼してもらえたようです」

 桜庭作品の読者なら、その作風も大きなポイントだったに違いない、と思うだろう。活劇的な描写、歴史背景の掬い取り方、人間という存在についての哲学的な考察まで、手塚作品に通じるエッセンスが桜庭作品にもある。ただ、日中戦争から敗戦までの時期を書くのは初めて。そのため企画を引き受けてからは、戦争関連の本を取り寄せ、ひたすら読んだ。

「いくら読んでも不安だったんです。歴史にはデータ部分とそれをどう解釈するかの部分がある。この人はこう解釈しているけれど、あの人はこう主張しているなど、人によって歴史解釈が全然違う。一人の人の意見だけでなく、なるべく客観的にとらえられるように、とにかくたくさん読むようにして、歴史の先生にも教えを乞うて。この2年間の読書の記憶といえば、とにかく歴史の本です」

手塚作品に基づいたキャラクターづくり

 本作の主要人物、間久部緑郎は、火の鳥の調査隊を組んでタクラマカン砂漠へ向かうよう命じられる。鳥の謎めいた力を皇軍の士気高揚に有効利用するのが目的だ。調査隊のガイドとして雇われたのは、緑郎の弟の正人と仲間のルイ、女スパイの川島芳子、ウイグル語が達者な笛吹き小姐のマリア。のちに猿田博士も一行に合流する。それぞれのキャラクターはどのように設定していったのか。

「手塚先生の作品には、同じキャラクターが俳優のように様々な作品に登場する、スターシステムがあります。その人物に関しては、俳優本来のイメージを大切にし、愛し、研究しました。たとえば猿田博士は『火の鳥』に何度も出てくるし、『ブラック・ジャック』にもブラック・ジャックの恩師の本間丈太郎として登場する。間久部緑郎は、『来るべき世界』では可愛い子役少年だったのに、裏切られて闇落ちする展開となり、大人になってからは悪役スターとして『火の鳥 未来編』『バンパイヤ』などで活躍。正人は『未来編』に山之辺マサトという名前で登場しますが、このシノプシスでは〝正しい人〟という漢字になっていて、そこに手塚先生の深いお考えが隠されているような気がしました。悪役と正しさを持つ人という、兄弟それぞれ極端に違う人にすれば、物語でハレーションが起きると思い、それを足掛かりに考えていきました」

 ほかのキャラクターにも、それぞれ手塚作品の絵のイメージを当てはめていった。

「緑郎の義父となる三田村要造は、『来るべき世界』にも登場するレッド公、妻の麗奈はブラック・ジャックの異母妹、小蓮のイメージで書きました。三田村要造の友人、田辺保はブラック・ジャック。シノプシスにあった謎の美女はマリアという名にしましたが、イメージは『未来編』のタマミですね。麗奈はブラック・ジャックの妹の女の子、川島芳子は『三つ目がとおる』に出てくるボーイッシュな和登さんです。ただ、川島芳子は実在の人物で写真も残っているので、多少自分の中でイメージが揺れる時もありました」

 そう、この川島芳子は実在したスパイだ。他にも山本五十六など実在の軍人が出てくるのは物語上必要だったろうが、彼女を登場させたのはなぜか。

「『火の鳥』シリーズには、卑弥呼など歴史的な人物が多く登場するので、そうしたほうが『火の鳥』らしさがより出ると考えました。この時代を書くならやはり川島芳子や李香蘭や甘粕大尉だと思いましたが、さすがに全員は出せませんでした。川島芳子はクールビューティーのイメージがありますが、本人の手紙を読むと〝キミにお願いがあるのさ〟というような、昔のちょっととぼけた文体なんですね。検閲でひっかからないようにわざとそうした文体で書いたという説もありますが、あの手紙で私の中のイメージが変わったので、旅の途中で空気をかき乱してくれるトリックスター的な役割を担ってもらいました」

 執筆にあたり、大陸にも赴いた。上海、南京、重慶、成都、蘭州……。

「2019年の3月に編集者たちと上海に行き、外灘(バンド)を歩いたり、魔窟と呼ばれた遊技場の大世界(ダスカ)を見たりしました。6月にも、調査隊が辿った道筋を自分でも行ったんです。やっぱり大陸は自然の規模が違いましたね。『西遊記』に出てくる火焰山にも行きましたが、本当に熱くて乾いていて。西に行くほど文化も人も変わるので、そこから物語の中の火の鳥がいたのはどんな土地だったのかを考えていきました。そのイメージは神坂智子さんの漫画、『シルクロード』シリーズにも助けられたんですが、今回読み返してみてあの作品も『火の鳥 未来編』の影響を受けている部分があるのではと気づきました」

桜庭一樹さん『小説 火の鳥 大地編』
上海の取材旅行にて

「GOSICK」シリーズで数々のアクションも描写してきた桜庭さんだけに、本作でも道中で列車の屋根の上での闘いがあったり、船での移動の際には川に飛び込む場面があったりと、楽しませてくれる。

「冒険もので列車が出てきたら絶対、屋根の上で闘いますよね(笑)。『GOSICK』の1巻目を書いた時に、担当者に〝(アクションは)横移動だけじゃなくて縦移動もしなくちゃ駄目だ、ジャッキー・チェンも必ずビルから落ちるだろう〟と言われたんですが、それを10年以上経った今も守っています。今回も、火や水を出し、走り、見せ場を作ることを心がけました」

火の鳥をどのように物語に絡ませるかの工夫

 シノプシスには、火の鳥がどのように登場するかは書かれていない。その血を飲むと永遠に生きられる、というのがオーソドックスな設定だが、

「シリーズでは毎回、火の鳥にひとつ新しい能力が加わるんですね。羽でちょっと触ると怪我が回復するとか。今までに出てきた火の鳥の能力を使うのが安全ではあるけれど、違う能力をつくったほうがより続編らしさを出せると考えました」

 今回新たに加わったのは、これまでにないとある能力だ。どのような形でその能力が発揮されるのか、これがとても奇妙な方法になっている。

「もともとそのSFジャンルの物語が大好きでいつか書いてみたかったのですが、今回ようやくできると思いました。じつは、歴史の本を読むうちに日清戦争と日露戦争の展開が不思議に思えてきたんです。日本は鎖国をしていて近代化に遅れていたのに、いざ戦争をはじめたら日清戦争にも日露戦争にも勝ち、でも続く日中戦争、太平洋戦争では負けていく。歴史の先生に訊いたら最初のふたつの戦争は〝たまたまた成功した部分もある〟と言われて。それならば、火の鳥の力を使ったから勝てたと考えると納得できるのではないか、と」

 しかしここまで伏線が複雑に絡まりあうストーリーを作り出すのは大変だったのかと思いきや、ご本人は楽しかった模様。

「ここで見た謎の光景が、後になって真相の伏線だったと分かる……といった話が大好きで、自分で構成を考えるのもすごく楽しかったです」

 作中、「鳥は鳥カゴで餌を待て」という言葉が繰り返し出てくる。「最初はなんとなく書いた言葉でしたが、後からこれはキーになるなと感じて何度か使いました」というように、これが終盤に効いてくる。ただ、結末に関しては心境の変化があったという。

「最初にプロットを作ってからラストを書くまでに2年かかっているわけですが、その2年の間に世の中も自分も変わったんですよね。プロットを読み返した時、ある女性の人物が家父長制社会を否定した結果罰を受けるように不幸になるという、弱者への懲罰的な話にも読めてしまう気がして。それは違うと思い、その人物がもっとも勇敢な人間として行動した、と解釈できるように強調しました」

 その勇気こそが読者の心に響き、深い余韻を与えている。時間旅行という要素から、輪廻や永遠と同時に、人生の一回性の尊さも浮かび上がってくる本作。

「『火の鳥』は、ダイナミックなストーリーの中に個人の悲劇的な話が連なり、人間にとって本当に大事なものは何かに気づかせてくれる。手塚先生のそのスピリットに少しでも近づけるようにと心がけました。手塚先生は子どもの知性を信頼していて、小学生の自分が読んでも分かると信じ、全身全霊で本当のことを語りかけてくださった。人間の愚かさや悲劇を隠さずに描きながら、〝それでも生きていく〟という信念に着地するのが『火の鳥』シリーズの素晴らしさ。その芯の部分はブレないようにと祈るような思いでした」

 それにしても、人の作ったシノプシスに基づき創作するのは大変だったのでは?

「実は、私はお題目があるお仕事も昔から大好きなんです。『GOSICK』もフリルのドレスの少女ホームズと日本人少年のワトソンのお話を、というお題がありましたし、『赤朽葉家の伝説』は女三代のクロニクルをやりましょうと提案されたものでした。もちろん今回は、最初は異常なくらいのプレッシャーがありましたが、だんだん、天才の作りあげた世界に浸る喜びのほうが勝っていきました」

 現在は4月に刊行予定の、コロナ禍の間に書いた日記(『分断された世界で 2020年1月~10月東東京ディストピア日記』として「文藝」2021年春号に掲載)書籍化の準備中。と同時に、ようやく趣味の読書生活が戻ってきた。

「やっと小説が読める日常になりました。王谷晶さんの『ババヤガの夜』や中国のSFアンソロジー『折りたたみ北京』なんかが面白かったですね。もう、床にひっくり返って好きなだけ本を読んでいます(笑)」

小説 火の鳥 大地編

『小説 火の鳥 大地編』(上・下)
朝日新聞出版

 

桜庭一樹(さくらば・かずき)
1971年島根県生まれ。99年、「夜空に、満天の星」で第1回ファミ通エンタテインメント大賞小説部門佳作に入選しデビュー。2007年『赤朽葉家の伝説』で日本推理作家協会賞、08年『私の男』で直木賞を受賞。その他の著書に「GOSICK─ゴシック─」シリーズ、『伏 贋作・里見八犬伝』『ほんとうの花を見せにきた』など多数。

(文・取材/瀧井朝世)
「WEBきらら」2021年3月号掲載〉

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