桜庭一樹さん『彼女が言わなかったすべてのこと』

桜庭一樹さん『彼女が言わなかったすべてのこと』

パラレルワールドと一人の女性の日常の〝波間〟

 ある日偶然パラレルワールドで暮らす友人と繫がった主人公。あちらの世界では感染症が広がって……。桜庭一樹さんの新作『彼女が言わなかったすべてのこと』は、不思議な設定を交えながら、一人の女性の日常を丁寧に描く長篇。あえて起伏のない小説を書こうとした、その思いとは?


パラレルワールドで暮らす二人

 二〇一九年九月の終わり。三十二歳の小林波間は、通り魔事件が発生して混乱する路上で芸大時代の友人、中川くんと再会する。その場で LINE のIDを交換して後日待ち合わせをするが、なぜか会えない。どうやら波間と中川くんは別々の東京を生きており、あの日会えたのは偶然だったようだ。二人を繫げるのは LINE だけ──。桜庭一樹さんの新作『彼女が言わなかったすべてのこと』は、パラレルワールドに暮らす友人と繫がりながら、自分の生活をゆっくり再建していく波間の数年間にわたる日常を描く。

「今回は、自分にとって新しいやり方で書いてみました」

 と、桜庭さん。本作は『文藝』に連載された長篇で、『文學界』に掲載した自伝的小説『少女を埋める』に続き、純文学系の雑誌に執筆した二作目の小説作品となる。

「以前は、テーマを伝えるために大きな事件やドラマを作る書き方をしていたんです。でも少し前に、最近の若い人は辛い展開のドラマや映画が苦手らしいと聞くようになって。そうなのかな、と思っていたんですが、気づいたら自分もそうなっていました。それは時代の空気かなとも思う。韓国の恋愛ドラマを観ていても、以前は凄絶にいじめられたり誤解ですれ違ったりして、両想いになるのが最終回くらいだったのに、今は三話や四話くらいで両想いになって後はずっと仲がよかったりする。私が好きな『私の解放日誌』という韓国ドラマも、日常の話がずっと続くのにすごく面白い。大きな起承転結があるわけではないところに新しいリアリティがあるのかなと感じます。それで自分も、特別ではない人の人生を書く中で伝えたいことが伝えられないかと考えるようになりました。それはエンタメの小説誌だとやりづらいかもしれないけれど、文芸誌の『文藝』なら受け止めてくれるのでは、と思ったんです」

 日々がゆっくり過ぎる中、連絡をとり続ける波間と中川。互いの世界の東京の街並み、流行や人気アーティストの相違点を確認し合う二人だが、波間には彼に告げていないことがある。彼女は夏に胸に悪性腫瘍が見つかり、摘出手術前に腫瘍をなるべく小さくするための点滴治療を受けている最中なのだ。WEB デザイナーとして勤務していた会社はいづらくなって辞めてフリーランスになったが、それも中川には伝えていない。そうしているうちに、中川が住むあちらの世界では、感染症が広がっていく。

「コロナ禍の緊急事態宣言で出かけられなかった日々って、もう今の世界とは地続きではない感覚になってきているんですよね。それでパラレルワールドという設定が出てきたんだと思います。向こう側には感染症の広がりによる社会全体的な大変さ、こっち側には闘病という個人的な大変さがあるけれど、お互いに相手の大変さがわからない。どちらの大変さも距離をおいて見ることができるかなと思いました」

 執筆した当初は、相手の世界の大変さがわかるよう、もっとドラマがある展開も考えた。

「でも、たとえば物語のために誰かを死なせるようなことはできないなと思いました。それこそ主人公も、フィクションの中で病気の人が、周囲が何か気づくためのきっかけとなる〝マジカル病人〟として消費されるのが嫌だなと感じている。そんな人の話を書く時に、物語のために誰かを死なせることはできないですよね。自分でも書きたいのはそういうことではなく、一人一人の尊厳なんだとわかってきて、それで、より起伏のない話になっていきました。
 現実でも、若くて才能があって綺麗な女性が病気を公表すると、世間が興奮状態になると感じます。そういう女性が破滅する悲劇を望む感覚がある気がする。そんなふうに消費されない主人公の話があってもいいんじゃないかと思いました。難病恋愛ものがあってもいいけれど、そうじゃない人の話があってもいい。こういう本が一冊でも出て、ちょっとでも何かが変わったらいいな、と」

 女性が消費の対象となる例は他にも描かれる。冒頭の通り魔事件は若い女性を狙ったものだったのだが、被害者の女性がSNSで炎上してしまうのだ。

「こうしたことは日常でもよくありますよね。相手が若い女性だとすごく叩きに来る人がいるのはなんでだろうと気になっていました。『少女を埋める』ではないですけれど、女性を〝埋める〟ことによって平穏を保つ心理があるように感じるので、そのことについては最後まで引っ張って書きました」

波と波の間を書く

 主人公の波間という名前が印象的だ。作中でも名前としてだけでなく、象徴的な意味合いを持って何度か言及される。

「いつも登場人物の名前は、その人の運命に合ったものを考えるんです。この作品では病気がわかってショックを受けるようなシーンはなく、治療の途中から話が始まっています。その期間が終わりに向かい、だんだん体力も回復して……という、〝渦中〟ではない時期、波と波の間みたいな状況を書こうとしたので、それでこの名前にしたんだったと思います」

 波間は三週間に一度点滴治療を受け、副作用に悩まされながらも自分の生活を立て直していく。独立した元会社の後輩のもとで働くことに決め、彼が借りている清澄白河のシェアオフィスを使い、その上のゲストハウスの小さな部屋に入居して住人と交流していく。シェアオフィスにはさまざまなスタートアップの若者がおり、彼らの仕事内容もユニークだ。

「これは日々の生活が取材になりました。実際、周囲にシェアオフィスを借りていたりゲストハウスに住んだりしている人たちが結構いるんです。彼らは会社を作るにしても規模を大きくしたいわけではなく、生活していけるくらいの収入を得て、自分のやりたいことを同じ価値観の仲間と楽しく続けていこうとしている印象です。波間もそんな一人です。治療の苦しい期間を、こうしたコミュニティの中で支えたり支えてもらったりしながら過ごしていく。昔の闘病ものでは、会社を休まなければならないとか、終身雇用のはずの会社をクビになる、といった描かれ方が多かったと思いますが、それとはまた違う生活をしている人として書きました」

 しかし実家に帰れば、家父長制の古い価値観を内面化したような母親から無遠慮な言葉を投げかけられたりもする。そもそも波間には、病気が見つかった後、両親には事情を告げずに実家から出た経緯がある。

「実家で主人公は、親の期待にこたえられなかった元優等生の娘として扱われている。そのような家族や、前の会社など古い規範が存在する中で病人でいることはなかなか大変です。主人公は、そうした苦しさのない場所を選んでいる。他にも無神経なことを言ってくる人と距離をとる場面がありますが、主人公は選択できるものは選択しているんです」

当事者と非当事者

 波間には自分と同じく闘病中の女友達もいるが、考え方や人生の選択は互いに同じではない。当事者といってもそれぞれだと実感させられる。

「自分が当事者じゃない事柄って、どうしても誰か一人の話を聞くと当事者全体がそうなんだと思ってしまいがち。でも実は一人一人違うんですよね。実際、なんらかの当事者の人と話すと、〝自分は代表者ではない〟〝自分は自分のことしかわからない〟って言う。いろんな人の声を持ち寄らないことには全体は見えてこないし、一人一人違うとわかっていないと人を尊重することにはならないってことを、忘れてはいけないと思う。
 自分も想像力が足りていなかったと気づいたことがあって。以前、コロナ禍の間に綴った日記をまとめた『東京ディストピア日記』を出した時、読者は日本で自分と同じような生活をしている人をイメージしていたんです。でも、自分の本のイタリア語の翻訳者から、その人が教えている大学で、あの本で卒論を書いた学生がいたと聞いて。日本よりもっと大変だった国の人が読むとは考えていませんでした。今後はそうした可能性があると意識していこうと思う。この小説もきっと、読者から〝この視点が書かれていない〟みたいな意見は出るかもしれません。指摘されて気づくこともあるだろうし、そうしたものが先々に別の作品、別の書き手に繫がっていけばいいな、と思います」

桜庭一樹さん

 しかしもし指摘があるとすれば、その中には的外れだったり、〝自分の体験とは違うからおかしい〟といった身勝手な声もありそうな気が……。

「あるかもしれません。これは波間という人の話で、全員を代表しているわけではないんですけれどね。まあ、そうした声を怖れていたら何も書けないので。以前、私は男性だと思われていた時期があって、〝男が自分にとって理想的な女を書いた〟とか〝男の作家だから女がわかっていない〟と言われたこともありましたから」

 非当事者が当事者にどう接したらよいか、という迷いも浮かび上がる。

「主人公はパラレルワールドで苦しんでいる友達に、なんて言ったらいいかわからずにいる。人はつねになんらかの当事者で、当事者として周りの反応に不満を持つこともある。同時に、非当事者としてどう反応したらいいかわからなくなることもある。誰もがその繰り返しだなと思う。その難しさをそのまま書きました。
 最近、年下の作家の方の小説がすごく面白いんです。ひとつの作品の中で、いろんな角度から多様な正義を書く人が増えた気がします。古谷田奈月さんの『フィールダー』とか、高瀬隼子さんの『おいしいごはんが食べられますように』とか。私は『少女を埋める』ではひとつの正義を一直線に書いたので、それに対して若い読者は違和感があったかもしれないなと思いました。そこからいろいろ読み、いろいろ考えました。自分もひとつの正義を声高に言うのではなく、いろんな正義を書きながら、みんなで最適解を見つけていくようにしたいと思って臨んだのが、この作品なんです」

複雑なことを複雑なままに

 タイトルは連載時の「波間のふたり」を書籍化の際に変更した。

「作中にタトゥーの曲名を日本語にした『彼女が言ったすべてのこと』を出した時は、タイトルにするつもりはなかったんです。でもこの作品は、主人公がだんだんいろんな複雑さがわかってきて、完全にこれが正しいということが言えなくなって、年々言わないことが増えて静かになっていく話でもある。言わないことについての話だなと思ったので、このタイトルにしました」

 はっきり言いたいのに言えない、ではなく、言わないという選択をした話だともいえる。

「複雑なことって、説明しようとどんなに言葉を費やしても、単純なひとつの意味でしかとらえてもらえなかったりする。この小説では、複雑なことを複雑なまま書いて、その全体像から伝わればいいなと思いました。複雑性を保つために一冊かけて書きました」

 現在は雑誌『紙魚の手帖』に「名探偵の有害性」を連載中だ。

「五十歳くらいの名探偵とその助手が、昔の自分たちに問題がなかったか、過去の事件をひとつひとつ再点検していく話です。これもただ名探偵を糾弾するのではなく、複雑なことを複雑なままに書いています。他には、これまで『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』や『私の男』で、親にいわゆるグルーミングされた子供の話を書いたので、そのもっと後の話を書きたいと思っていて。ただ連載は一度に一本しかできないので取り掛かるのは先になります。複雑なことを複雑なまま書くには時間がかかるので、じっくりやっていきます」

彼女が言わなかったすべてのこと

『彼女が言わなかったすべてのこと』
河出書房新社

桜庭一樹(さくらば・かずき)
1971年島根県生まれ。99年、ファミ通エンタテインメント大賞小説部門佳作を受賞しデビュー。2007年『赤朽葉家の伝説』で日本推理作家協会賞、08年『私の男』で直木賞を受賞。近著に『小説 火の鳥 大地編』『少女を埋める』『紅だ!』などがある。

(文・取材/瀧井朝世 撮影/浅野剛)
「WEBきらら」2023年6月号掲載〉

週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.97 大盛堂書店 山本 亮さん
◎編集者コラム◎ 『懲役病棟』垣谷美雨