知念実希人さん『崩れる脳を抱きしめて』

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『幻の女』に挑む

著者近影(写真)
知念さん

イントロ

天才女医を探偵役に据えた「天久鷹央の推理カルテ」シリーズと、 閉鎖状況にある深夜の病院を舞台にした「病棟」シリーズが共に累計七〇万部突破となり、 現役医師でもある知念実希人はベストセラー作家として一躍、注目を集めている。 デビュー五周年と二〇作目の区切りとして世に送り出したのが、最新作『崩れる脳を抱きしめて』だ。 本作で、作家はミステリーと恋愛の融合を試みた。

『崩れる脳を抱きしめて』は、二〇作目にして初となる恋愛小説だ。執筆のきっかけは、編集者からの意外な提案だった。

「『時限病棟』(「病棟」シリーズ第二弾)の編集者から、次はがらっと作風を変えて、恋愛モノを書いてくださいと言われたんです。僕は・絶対嫌です・と答えました(笑)。恋愛モノって、それを専門に書いている人たちがいっぱいいますから、わざわざ僕が書く必要もない。書いたとしても、自分にしか書けないものにならないんじゃないかなと思ったんです。でも、恋愛という一言が頭のどこかに引っ掛かっていたんでしょうね。数時間もしないうちにぱっと今回のメイントリックに繋がる設定が浮かんできたんです」

 単行本のオビには、「愛した彼女は幻なのか?」という惹句が踊る。恋愛小説である本作は、ウィリアム・アイリッシュの古典的名作『幻の女』を・本歌取り・した、ミステリーでもあるのだ。

「自分だけがその人のことを知っていて、他の人は❝そんな人はいなかった❞と証言している。ジョディ・フォスターが主演した映画『フライトプラン』もそうだし、『幻の女』モノって物語のひとつの典型ですよね。その状況設定に恋愛の要素を混ぜたら、自分にしか書けないミステリーになるんじゃないかと思い付いたんですよ。ミステリーとしての骨格のうえに、恋愛要素を肉づけしていくイメージで、構想を進めていきました」

 主人公は、脳外科医を目指す二六歳の研修医・碓氷蒼馬だ。普段は実家のある広島の大病院に勤務しているが、地域医療の実習として、神奈川県葉山町にある高級療養型病院へと赴任する。そこで出会ったのが、最悪の脳腫瘍とされる「グリオブラストーマ」を患う二八歳のユカリ──弓狩環だった。二人は、ユカリが不治の病であることを承知しながら惹かれ合う。しかし実習が終わり、蒼馬は広島へと戻らざるを得なくなる。再び病院を訪れた時、医師や患者たちは「ユカリは死んだ。そもそも、あなたは彼女を診察したことなどなかったはずだ」と証言する……。

「本編は全二章構成で、本当のミステリーは第二章から始まります。話を思い付いたのもそこからですし、ミステリー作家としては、第二章が勝負なんですよね。ただ、第二章の謎をできる限り輝かせるためには、第一章で主人公とユカリの関係性が深まっていく、恋愛の部分をしっかり描かなければいけない。そうしなければ、ユカリが消えたと知った時の主人公の心情や、必死で探し出そうとする彼の行動にリアリティが出ないし、読者も共感できないと思ったんです」

 

恋愛は相手も
自分も変える

 

 ユカリは自身の脳腫瘍のことを、近い将来爆発することが決定的な「時限爆弾」と表現している。一方の蒼馬は、家族にまつわる重たい過去という「鎖」に縛り付けられている。そんな二人が出会い、少しずつ心を近付けていく第一章は、ミステリーとして書くべきことが明確に決まっていた第二章より、執筆には苦しんだそうだ。文体に関しても、過去作とは大きく変化させる必要があった。

「第一章では登場人物たちの心情を厚く描写する必要がありました。病院の様子や街の風景に関しても、読みながら目に浮かぶように書き込むことで、読者を物語の中に引き入れることができる。そういったことを『仮面病棟』や『時限病棟』といったサスペンス作品でやると、スピード感と緊張感が削ぎ落とされてしまいます。今回は恋愛モノだったからこそ、読者が邪魔だと感じない範囲で文章を練り上げていきました」

 第一章にも謎は登場する。その謎が、「医師と患者」という枠から踏み出せなかった二人の関係にブレイクスルーをもたらす。

「ミステリー作品であるという前提から考えた時に、第一章にも何かしらの謎を出したかったんです。謎自体はそんなに大きくないけれども、その謎が解かれることによって、主人公が大きく変わる。彼のこれまで見ていた世界ががらっと変わり、ユカリに対する向き合い方も変わるという構成にしたかった」

 その構成を採用した裏には、本作が恋愛小説であることも作用している。

「恋愛は相手の存在によって自分が変わることであり、相手もまた自分の存在によって何かが変わる、お互いが変わることではないでしょうか。この作品は主人公の視点でストーリーが進んでいくので、彼の内面がどう変わっていくのかを表現することは重要だったんです」

 

限られた命を
どう生きるか

 

 一九七八年生まれの著者は東京慈恵会医科大学卒業後、二〇〇四年から医師として都内で勤務を始める。同じ頃にもうひとつの夢だった小説家の道を追いかけ始め、作家デビューを果たしたのは、二〇一二年だ。

「僕が専門にしているのは総合診療科と言って、診察に来た患者さんの病気が何なのか推測する科なんです。この人は何歳で、男女どちらで、いつからどういう症状があって……という所見から、どういう検査をすれば確定診断になるかを判断していく。そういった想像力は、ミステリーに近いんですよ。もともとミステリーが好きで、たくさん読んできた蓄積などももちろんありますが、医者としての経験が、作家としての自分を鍛えてくれたところは大きいと思います」

 本作は、いわゆる医療ミステリーではない。だが舞台設定やドラマテリングの中に、現役医師としての経験や知識がさまざまな形で息づいている。そのひとつが、今や恋愛小説の定番となった難病モノについての批評的視線だ。

「重い疾患を抱えている人との恋愛が描かれた小説って、最近よくありますよね。僕も何作か読んだのですが、医者の視点から見るとどうしても、病気に関するリアリティが甘いなと感じてしまうんです。どの病気のどういう状態の時にどういう症状が出て、近いうちに亡くなると自分で分かっている人はどういうことを思うのか。僕は医者として一〇〇〇人ぐらい看取ってきましたから、やるならばその経験を元に書かなければいけない、自分だからこそ書けることがあるはずだと思いました。恋愛小説のかたちは取っているけれども、命の時限装置を意識した状況の中で、どうやって生きるか、どうやって死ぬか、という死生観にまつわることもできる限りたくさん入れたかったんです」

 

驚きと感動を
❝両立❞させる

 

 著者は現在、新作を年平均四冊のハイペースで刊行しながら、父の医院で週に一日、診察室で白衣をまとっている。

 医療の現場で得た経験は、他の作家にはないアドバンテージであるという自覚はある。ただ、「医療ミステリー」というジャンルへのこだわりはない。

「医療が関係するか関係しないかにかかわらず、自分にしか書けない小説を書き続けていきたいんです。島田荘司先生の『占星術殺人事件』が、僕にとって理想の小説なんですよ。いろいろな人が・あのトリックは他に誰も思いつかなかった・と口を揃えて言う、それくらい強烈なオリジナリティを持った小説を、いつか自分も書いてみたいんです」

 そのトライアルの第一歩が、本作だったのだ。

「恋愛のドラマとミステリーを、どちらも高いレベルまで持っていったうえで融合させる、というチャレンジがしたかったんです。ですから第二章の最後で謎がすべて明かされる時も、そこで終わりではない。謎が明かされたことによって二人の関係性はどう変わるのか、そこをしっかり書き込まなければ意味がない。驚かせるのと同時に、感動させることが、この作品の一番の目標でした」

著者名(読みがな付き)
知念実希人(ちねん・みきと)

著者プロフィール

1978年沖縄県生まれ。東京慈恵会医科大学卒、日本内科学会認定医。2011年、第4回島田荘司選ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を『レゾン・デートル』(刊行時『誰がための刃』と改題)で受賞。15年『仮面病棟』が啓文堂書店文庫大賞を受賞し、ベストセラーに。他の著書に、『時限病棟』『あなたのための誘拐』など。

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