著者の窓 第7回 ◈ 砂原浩太朗『高瀬庄左衛門御留書』

著者の窓 第7回 ◈ 砂原浩太朗『高瀬庄左衛門御留書』

 二〇二一年一月の刊行以来、各紙誌で本読みのプロたちに絶賛されている砂原浩太朗さんの時代小説『高瀬庄左衛門御留書』(講談社)。デビュー二作目にして、早くも山本周五郎賞・直木賞にノミネートされた注目作です。五十歳を前に妻と息子を失い、亡き息子の嫁・志穂に絵を教えながらつましい生活を送る下級武士・高瀬庄左衛門。しかし藩を揺るがす陰謀が、彼の生活を呑みこんでいく──。悔恨を抱きながら、それでも美しく生きる人々の姿が胸を打つ作品は、どのように生まれたのか。著者の砂原さんにうかがいました。


生活者としての実体験を盛りこんで

──砂原さんの二冊目の小説『高瀬庄左衛門御留書』が話題です。新聞・雑誌に数多くの書評が掲載され、山本周五郎賞や直木賞にもノミネートされましたが、こうした反響をどのように受け止めていますか。

 素直にありがたいと思っています。反響や感想こそ作家にとって一番の糧ですから。書評は目につく限り読んでいますし、Amazon や読書メーターのレビューも見ています。中にはネガティブな意見もありますが、こういう読み方もできるのかと教えられることも多い。何気なく書いた台詞に「感動した」という方もいて、読書という行為の豊かさをあらためて感じました。

──単行本デビュー作『いのちがけ 加賀百万石の礎』は加賀・前田家の史実をもとにした歴史小説でしたが、今作は神山藩という架空の藩を舞台にした時代小説です。二作目にして時代小説にチャレンジされた理由は。

『いのちがけ』を書いた後に、担当編集者からご提案いただいたんです。僕の文章のたたずまいや感情の掬いとり方が、むしろ時代小説に向いているのではないかと。それで執筆したのが、本書の第一章にあたる「おくれ毛」という短編です。幸い編集者にも好評で、自分でも手応えを感じたので、長編化することにしました。舞台の神山藩は、北陸のどこかにある十万石くらいの藩。せっかく時代小説を書くなら、ゼロから舞台を作りあげた方が面白いだろうと考えました。僕は父方母方ともに祖父が富山県の出身ということもあるのか、雪国ならではの風景には心惹かれるものがありますね。

──主人公の高瀬庄左衛門は妻と息子を亡くし、つましい暮らしを送っている下級武士。五十歳手前という設定なので、書き手である砂原さんとほぼ同年代ですね。

 確かにそうなのですが、江戸時代の五十歳といえば、現代でいう六十歳から六十五歳くらいのイメージです。もう隠居暮らしをしていてもおかしくない年齢なので、年上の男性を書いているという意識でしたね。とはいえ自分がこれまで積み重ねてきた人生経験は、否応なく作品に盛りこまれています。僕は三十歳の時に作家を志して会社を辞め、それ以降は主に在宅のフリーランスとして活動してきました。朝起きたら洗濯してゴミを出し、食事のあとはお皿を洗って……というような日々のルーティンをこなす生活を、デビューまで十五年ほど続けてきたんです。というか、今もですが(笑)。そうした経験はたとえば第二章の「刃」で、庄左衛門が米を炊いているシーンに反映されています。時代小説には欠かせない生活者としてのリアルなまなざしが、いつの間にか身についていたんでしょうね。

砂原浩太朗さん

後悔を抱えながら、それでも人生を受け入れる

──息子・啓一郎の死後、一度は実家に帰った嫁の志穂ですが、やがて絵を学ぶために庄左衛門のもとに通ってくるようになる。庄左衛門と志穂の淡い関係が、この物語の軸になっています。

 川端康成の『山の音』などで扱われている〝舅と嫁〟という関係性に、以前から関心がありました。藤沢周平先生の『三屋清左衛門残日録』が一九九三年にNHKでドラマ化されているんですが、仲代達矢さんと南果歩さんが舅と嫁を演じていて、原作には書かれていない色気が滲み出ているんですよ。身近なところでは、息子にお嫁さんがきたら、舅が張り切って、何十年も触っていなかったピアノを弾き出した、という話を聞いたことがあります(笑)。そんな淡く微妙な関係を、自分なりに書いてみたいと思いました。庄左衛門の趣味を絵にしたのは、自分自身、絵を観るのが好きだということもありますが、あまりお金がかからず、女性でも手をつけやすいものだからです。時代小説に出てくる下級武士の趣味といえば釣りが多いので、既存の作品と差別化したいという狙いもありました。

──庄左衛門は志穂の相談を受け、このところ帰りが遅いという志穂の弟・宗太郎の行動を探り始めます。その結果、神山藩を揺るがす陰謀に巻きこまれることになりました。

 人生に疲れ、一度は世に背を向けた庄左衛門が事件に関わるとしたら、志穂の憂いを晴らすためだろうなと考えました。ただ、「おくれ毛」を書いた時点ではどんな事件にするか、まったく決めていなかったんですよ。プロットを細かく作るのではなく、書きながら展開を考えていくことが多いんです。「おくれ毛」で志穂に弟がいると書いたので、その弟を事件に関わらせようとか、庄左衛門は郡方という農村を監督する役職なので、強訴のような事件が出てくるんじゃないかという具合に、前に書いた内容を後半で膨らませていく。結果として、ミステリー的な展開を含んだ物語になりました。子供の頃、ミステリーや星新一さんのショートショートをよく読んでいたので、その影響が出たのかもしれません。

──宗太郎の尾行を続けていた庄左衛門は、博打好きの蕎麦屋・半次、死んだ息子と浅からぬ因縁をもつ若侍・立花弦之助と知り合います。志穂、半次、弦之助。それぞれに欠落を抱えた人びととの温かな交流が、閉ざされていた庄左衛門の心を変えていきます。

 僕の小説観として、主人公は物語の中で必ず成長するはずだ、という考えがあります。人間は日々変わるものだと思うんですね。その変化を描くのが小説の面白さで、僕はビルドゥングス・ロマン(成長小説、教養小説)の信奉者なんですよ。たとえば冒頭の「おくれ毛」だけでも、出だしと結末で庄左衛門の心境は変化しています。成長するのは主人公に限らず、志穂や弦之助などのキャラクターにしても同様です。諦めたり傷ついたりしている人びとが、さまざまな出来事を通して変わっていく。その姿をじっくり描きたいと思いました。

砂原浩太朗さん

──ある夏の日、亡き師の墓参りに出かけた庄左衛門はかつて思いを寄せた女性・芳乃と再会します。「おすこやかでおられましたか」と芳乃に問われた庄左衛門が、自らの過去に思いを馳せ、人生を静かに肯定するこのシーンはとても印象的でした。

 人生に後悔はつきものですよね。たとえどんな成功者であっても、あの時ああすればよかった、という悔恨の念を抱かずに生きている人はいないと思う。庄左衛門もまさにそうでしたが、志穂や半次たちと交流し、芳乃と言葉を交わしたことで、思うにまかせない人生を受け入れようという心境になった。マイナスも含めて、今ここにいる自分を認めようという境地です。ここに到達できたのが、庄左衛門の主人公たるゆえんでしょうね。僕は彼を〝半歩先の理想〟だと考えています。心の持ちようによっては実現できるかもしれない、少しだけ先にある理想の生き方を庄左衛門は体現しているんです。

──藩政を揺るがす重大事件が進行するなか、さまざまな人物が登場します。不幸な生い立ちの弦之助を思いやる兄・立花監物、切れ者の側用人・鏑木修理。中でも異彩を放っているのが、庄左衛門をたびたび窮地に陥れるかつての剣術仲間・慎造という男です。

 慎造は思い入れのあるキャラクターですね。僕にとって登場人物は、作品に出演してくれる俳優さんのようなもの。なるべく全員に芝居のしどころを作ってあげたいと思っています。ただそうすると、慎造のようなキャラクターは、「悪人に見えて、実はいい奴だった」という描き方になることが多いですが、彼は最後まで改心しない(笑)。それでいてしっかり見せ場を作れたので、書き手として手応えを感じました。俳優さんだったら演じてみたい、と思う役柄ではないでしょうか。

藤沢周平が小説の理想型を示してくれた

──四季折々の自然描写を含んだ情緒ある文体も、本作の大きな魅力です。

 ありがとうございます。文章には気を配っていて、推敲にもかなり時間をかけています。漢字と仮名のバランスなど、自分なりに決めている文章表現のルールがいくつもあるんですよ。自分が読んでいて心地いいと思うリズムを追求して、文章を作りあげています。そこを褒めていただけたのは、読者の方が僕の感覚を共有してくださったということなのでしょうね。

──架空の藩を舞台に下級武士の暮らしを描いた時代小説といえば、『蝉しぐれ』などの藤沢周平作品が連想されます。砂原さんも大の藤沢ファンだそうですね。

 ファンというか、「藤沢教信者」ですね(笑)。中学時代からの愛読者です。池波正太郎や山本周五郎の作品も好きですが、自分にとって藤沢先生は特別な存在。藤沢作品は、小説のひとつの理想型ではないかと思っています。先生には大学生の時に手紙を出したことがあります。その後、ご息女の遠藤展子さんと面識を得て、先生が僕の手紙を取っていてくださったと知り、とても嬉しかったです。

──それはすごいエピソードですね。では、藤沢作品のどのあたりに惹かれているのですか。

 まず面白いことです。娯楽性というのは読書をするうえで大きな動機ですから、そこは大切にしたい。しかしそれだけでは満足できない。藤沢先生の作品は面白さの中に、人間ってこういうものだよね、と感じさせてくれる深みがあります。さらに文章が美しい。小説は言葉だけで成り立っているものなので、やはり文章の完成度は大事な要素だと思います。僕にとって藤沢先生の作品は、進むべき方向を示してくれた道標なんです。だからこそ、その亜流であってはいけない。作家は皆、一国一城の主なので、藤沢先生を道標としながらも、自分だけの世界を作りあげなくては。

砂原浩太朗さん

──単行本の帯には「『神山藩シリーズ』第1弾!」と書かれていますが、今後も神山藩の物語を書き継いでいかれるのでしょうか。

 そのつもりです。この時代の地方の藩は、そこだけで完結したひとつの世界です。多くの人は藩を出ることなく、一生を終えることになる。そこにドラマが生まれるんですね。次回作はまた違った主人公の成長を、同じ神山藩を舞台に描いていきたいと思っています。

──今後のご活躍が楽しみです。ではこれから『高瀬庄左衛門御留書』を手にする読者に一言いただけますか。

 ままならない人生を、ままならないままに生きる人たちの物語です。何もかもうまくいっている人はいないし、百パーセントの幸せが得られなくても不幸ではない。下級武士だから不幸ということも、上級武士だから恵まれているということもない。個々の人生があるだけだと思います。読者の反応で嬉しかったのは、多くの方が庄左衛門の生き方を「美しい」と評してくださったことです。特別美しく書こうと意図したわけではなかったので、この反応は意外でした。〝半歩先の理想〟として、彼の存在が受け入れられたということなのでしょうね。庄左衛門や志穂たちの物語を通して、さまざまなことを感じていただけると嬉しいです。


高瀬庄左衛門御留書

『高瀬庄左衛門御留書』
講談社

砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業後、出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著に『決戦!桶狭間』『決戦!設楽原』『Story for you』(いずれも講談社)、また歴史コラム集『逆転の戦国史』(小学館)がある。

(インタビュー/朝宮運河 写真/田中麻以)
「本の窓」2021年7月号掲載〉

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