翻訳者は語る 高橋尚子さん

連載回数
第26回
翻訳者は語る 高橋尚子さん

 日本では初紹介の作家ながら英米で高い人気を誇る、元警察官の女性作家クレア・マッキントッシュ。彼女のデビュー作『その手を離すのは、私』は、翻訳した高橋尚子さんにとっても長編デビュー作となりました。警察小説、家族小説、恋愛小説と多面的な魅力を持つ本作の翻訳出版を持ち込みで実現し、二児の母として育児をしながら原書と格闘した舞台裏を聞きました。


〈衝撃的な序章に心を摑まれた〉

 原書は Kindle のお薦めで知りました。原題(I Let You Go)を見てカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』(Never Let Me Go)がふと思い浮かび、試し読みを始めるとすぐに「最後まで読みたい」と思ったのです。幼い少年が母親の目の前で車にはねられる、短いけれど衝撃的な序章に心を摑まれましたね。原書の装丁も素敵ですぐに購入しました。

 第一章は魅力的な登場人物たちの抱える悩み、仕事や家族、恋愛の話が丁寧に描かれていて、興味が途切れることはありませんでした。第二章からは怒涛の展開で、驚いたり、欲望をかき立てられたり、怒りを覚えたり……。感情を揺さぶられ、衝撃的なツイストに本を置くことができませんでした。

〈台詞にはなくとも心の声が聞こえる〉

 警察小説としてプロットがしっかりしている点も大きな魅力ですね。著者が元刑事ということもあり、警察や法廷の雰囲気やそこに関わる人たちの力関係を、何気ない言動や台詞から読み取ることができます。登場人物たちがみな非常に個性的で立体的で、そこが一番魅了された点でした。どの人物も独自の過去、葛藤、欠点や美点があり、独自の声を持っていて、彼らがどんな声やトーンで話すのか聞こえてくるようでした。

 本作には彫刻家のジェナ、新米刑事のケイト、警部補の妻で元警察官のマグスと三人の女性が登場します。現実的なことは深く考えずに芸術家として生きていくことを夢見るナイーヴなジェナの台詞は、学生時代の自分の声のように聞こえてきましたし、ケイトの生意気だけれども小気味良い物言いは、独身時代、何かを失うことへの恐怖がそれほどなかった自分の心の声のようでした。そしてかつては優秀な警察官だったにもかかわらず、現在は子育てと家事に追われて、夫の帰宅時にはいつもスウェットやTシャツを着ているマグス。台詞にはなくとも、彼女の心の内が容易に想像できました。

 ウェールズの海辺の風景描写も美しく、日本語ならどんな表現になるのだろうと思うと、翻訳したい気持ちがどんどん強くなって……。企画書を書き、師匠の田口俊樹先生を介して出版社に持ち込み、刊行が決まりました。

〈赤ん坊を抱えチャンスに食らいつく〉

 翻訳の仕事に興味を持つようになったのは大学時代。英米文学を専攻しましたが、不真面目な学生だった私が目を覚ましたきっかけは、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』でした。最初に読んだのは鴻巣友季子さんの訳。衝撃的でした。原文と読み比べたりもし、そこで初めて翻訳の難しさや素晴らしさを知り、本をじっくり読み続けたいのであれば翻訳家になればいいんだ! と安易にもそう思ったのだと思います。

 その後、英会話講師の職に就きながらも翻訳に挑戦したい思いが募り、翻訳学校に三年ほど通いましたが、最後の年に子どもを授かり、子育て中心の生活が始まりました。第二子にも恵まれると、いっそう慌ただしくなり、それでも翻訳の世界から離れるのが惜しく、子育てが少し落ち着いたら必ずもう一度挑戦しようと思っていました。そんな私のあきらめの悪さを見兼ねたのか、出産後にもリーディングや下訳の仕事を田口先生がくださって、年に一度あるかどうかのチャンスに、赤ん坊を抱えて必死に取り組みました。

〈睡魔との戦い、家族への配慮〉

 本作を翻訳していたとき、下の娘は週四回午前中だけ幼稚園に通い、上の娘は降園後に友達と公園で遊ぶことが日課になっていました。その楽しみを奪ってはいけないと思い、子どもたちが起きているあいだは遊びと家事に集中し、二人が幼稚園に行っている時間と就寝後、土日に集中して作業しました。大変だったのは睡魔との戦いと、家族への配慮。子どもたちの不満が溜まっていると感じることがたまにあり、なんとも苦しかった。翻訳出版が決まったとき、家族には迷惑をかけないと心に誓ったのですが、子どもたちにはいろいろと我慢をさせてしまい、訳了まで六か月かかりましたが、夫の理解と助けがなくてはやり遂げられませんでした。

 今は夢が叶ったばかりなので、これ以上にチャレンジしてみたいことは思いつきません(笑)。少しでも多くの小説を読み、素晴らしい作品を翻訳しつづけられたらと願うばかりです。

その手を離すのは、私
高橋尚子(たかはし・なおこ)

1983年生まれ。訳書に『ベスト・アメリカン・短編ミステリ2012』収録の「きれいなもの、美しいもの」「名もなき西の地で」など。

〈「STORY BOX」2020年8月号掲載〉
サンドラ・ヘフェリン『体育会系 日本を蝕む病』/日本をこよなく愛する日独ハーフが書くニッポン論
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