独創的な言語哲学の書『エコラリアス 言語の忘却について』
子どもには本来、あらゆる音声を発音する能力があるが、言語を習得するにしたがって、母語にある音しか発音できなくなる。しかし、その記憶は完全に消え去るわけではない――。忘れることの創造性を説く稀代の書。
【ポスト・ブック・レビュー この人に訊け!】
鴻巣友季子【翻訳家】
エコラリアス 言語の忘却について
ダニエル・ヘラー=ローゼン 著
関口涼子 訳
みすず書房
4600円+税
「言語の死」という概念に疑義を突きつける稀代の書
言語の忘却と記憶の影について書かれた独創的な言語哲学の書だ。
十か国語に通じた著者は、言語学、哲学、文学、神学、心理学など広い領域の文献を渉猟しながら、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語、ペルシャ語、アラビア語などの古典言語から、ある谷の方言やコーンウォール語などのマイナーな言語の間を自在に行き来し、ひとつの言語には別な言語の「痕跡」が「
ひとつの言語の中には、別な言語の影がしばしば垣間見える。アルゼンチンのカスティリャ語にはイタリア語のリズムが感じられ、ロシア語のtcheという狭窄音を聞けば、ドイツ語のtschが想起されるかもしれない。
二十数年前、米国政府は「現代ほど、地球全体を脅かすレベルでの大量の(言語の)消滅」に直面した時代はないと警告を発した。英語でもって諸言語を一番圧迫しているのは米国なのだが、ともあれ、言語の絶滅に対する懸念はこの四半世紀の世界的ブームだ。しかし本書の著者は「言語の死」という概念に疑義を突きつける。言語は一見忘却されながら、他言語に谺を響かせている。その谺の反響や共鳴が言語と文化の新たな生成に寄与するのだ。忘れることの創造性を説く稀代の書。
(週刊ポスト 2018年8.10号より)
初出:P+D MAGAZINE(2018/09/30)