今月のイチオシ本 エンタメ小説 吉田伸子
主人公は、生活デザイン雑誌の編集者羽野。小学生時代を発展途上国で過ごした彼は、その時の記憶を心の奥に抱えて生きている。太陽が照りつける彼の国での日々、植物の息づかいを間近に感じた「庭」での時間は、彼にとっては完璧なコクーンのようだった。日本に帰国してからの時間の方が長くなってしまった今も、羽野を捉えているのは、あの、眩むような「楽園」でのひとときだ。
彼の中に巣食うのは、その「楽園」への強烈な回帰願望であり、だから帰国後の彼は、自分を閉じたままで生きている。帰国子女というレッテルからも、会社内での人間関係からも距離を置いて生きる彼にとって、唯一の疑似楽園は、植物の緑でむせかえるような自分の部屋だけだ。そこで彼は、つかの間安らぎを得ることができた。
薄情さと紙一重のクールさで、けれどなんとか小器用に生きてきた羽野だったが、ある日、建築デザイナー・曾我野の愛人で、ニューヨーク育ちの理沙子と出会ったことで、細心の注意で守ってきた自分自身の繭から、ゆっくりと抜け出していく……。
羽野のキャラクタは、小学生時代の大半を、アフリカのザンビアで過ごした、作者自身が投影されていると思われる。強烈な渇きのように、・あの場所・を希求する羽野。それは、作者である千早さん自身がずっと抱えてきた想いでもある。そこに還れないことが強烈に寂しくて、けれどそのことはきっと誰とも分かち合えないことも知っている。そんな自分の心の奥を、千早さんは本書でほんの少しだけ、羽野というキャラを通して開けて見せた。
一時期、羽野の部屋に・避難・していたことのある緋奈は言う。「羽野さんはね、植物に囲まれて眠っているお姫さまよ」と。「でも、あの部屋がある限り羽野さんは変わらない。あの部屋には先がない」
羽野は先を見つけることができるのだろうか。そしてその時、羽野は何を思うのだろうか。
予感を秘めたラストの余韻が、読後しなやかに絡みついてくる。