「推してけ! 推してけ!」第47回 ◆『アルプス席の母』(早見和真・著)
評者=吉田伸子
(書評家)
これは野球小説ではない。野球母子小説だ
「子どもって、いつから心配じゃなくなるんですかね」
かつて、仕事の師匠筋にあたる方に、尋ねたことがある。当時のその方のお子さんは、上は社会人で、下は大学生。うちの息子はまだ小学生だった。
「そうだなぁ、大学に入れば、って思っていたけど、やっぱり心配で、成人になれば、って思ってたけど、それでもまだ心配だったよ。社会人になっても心配だから、もしかしたら結婚したらようやく安心するのかもと思うけど、まぁ、結局は、親ってのは子どものことはずっと心配なんだよね、きっと」
本書を読んで、その言葉を思いだしていた。親とは心配する生き物であり、子どもはその心配をうるさく思いつつも、そんな親の心配を超えて成長していくものなのだ、と。
物語は、八月十五日、午後一時の阪神甲子園球場から始まる。延長十一回の表、一塁側アルプス席からグラウンドを見つめる秋山菜々子が、本書の主人公だ。
そう、本書は野球小説、ではない。一部では神聖化されている感さえある「高校野球」を、球児の母の視点から描ききった、野球母子小説なのである。まず、そこがいい。野球で親子ものとくれば、〝父子鷹もの〟を想起しがちだが(「巨人の星」「MAJOR」)、敢えて母親を主人公にしたことで、物語がぐっとリアルかつ生活感あふれるものになった。
菜々子はシングルマザーで、看護師として働きながら女手一つで息子・航太郎を育てている。亡き夫が遺してくれた生命保険金の五百万円は、航太郎の高校の費用にと「一円も手をつけずに取ってある」ものの、リトルリーグから野球を続けてきた航太郎が行きたいと思っている高校は、大阪の強豪私立校。シニアのチームの監督から「初年度は入学金や制服代なんかで百数十万」、野球の用具代や、なにより神奈川に住んでいる航太郎が入学するとなると、そこに寮費までもが加わる、と聞いて、菜々子は暗澹たる思いに。
野球に限らないのだが、スポーツはお金がかかる。凡百の選手ならいざ知らず、才能のある選手ほど、かかる。これ、割とスルーされがちなんですが、そこをきっちりと描いているところもいい。
結局、航太郎は行きたいと願っていた高校とは別の、大阪の私立校・希望学園に進む。野球部の監督から特別特待生(入学金・授業料全額免除)としてスカウトされたことも一因だが、航太郎自身が、その監督の指導を受けてみたい、と思ったことが理由だった。
ここから、航太郎の希望学園野球部での日々が始まる。菜々子がすごいのは、自身も神奈川から大阪に移住してしまうことだ。航太郎は寮生活なので一緒に暮らすことはできないのだが、少しでも近くにいたいと思うのが親心なのだ。看護師という職業も幸いして、大阪での暮らしをスタートさせることができた菜々子。新しい職場の人間関係は順調だったが、菜々子の前に立ち塞がったのは、野球部の「父母会」という壁だった。
この父母会の実態というのが、まぁエグいんですよ。人間関係マウント合戦は当たり前、お金のことも絡んでくるあたりもエグい。何よりもめちゃくちゃリアル。
それでも、球児の母たちの想いの根っこは一緒で、それは「甲子園出場」だ。とはいえ、そこは競争社会。一年からベンチに入れる子もいれば、三年になってもスタンドから応援するしかない子もいる。全国から集まって来た才能ある子たちなのに、そのなかで芽が伸びる子もいれば、そうでない子もいるのだ。もちろん、一番苦しくて辛いのは球児たち本人なのだが、それを見守る親もまた、辛い。そのあたりのドラマが、菜々子と航太郎という母子をとおして、描かれる。そこが、いい。本当にいい。
デビュー作『ひゃくはち』で描いた高校野球の世界と本書の違いは、作者である早見さんの視野の広さだ。球児だけではなく、その親、監督、そして日本の「甲子園」をてっぺんとする高校野球そのものにまで、早見さんの目が届いている。そこに、早見さんのデビューからの15年間が、ある。
この物語に救われる球児の母親が、どれだけいることか、と思う。もちろん、現球児たち、元球児たちも。
本書は、野球を愛している人にしか書けない物語なのである。
【好評発売中】
『アルプス席の母』
著/早見和真
吉田伸子(よしだ・のぶこ)
1961年青森県生まれ。書評家。「本の雑誌」編集者を経てフリーに。主な著書に、『恋愛のススメ』など。