今月のイチオシ本【歴史・時代小説】

『恋の川、春の町』
風野真知雄
角川書店

〈耳袋秘帖〉〈妻は、くノ一〉といった文庫書き下ろし時代小説の人気シリーズをいくつも手掛ける風野真知雄は、中山義秀文学賞を受賞した『沙羅沙羅越え』など歴史小説にも名作が多い。戯作者の恋川春町の晩年を描いた本書は歴史小説色が強いが、恋愛模様や市井の人情を描く時代小説の要素もあり、どちらが好きでも楽しめるようになっている。

 駿河小島藩の年寄本役・倉橋寿平は恋川春町の筆名で創作を始め、一七七五年刊行の『金々先生栄花夢』で黄表紙という新たなジャンルを確立し、売れっ子の戯作者になった。それから一四年、春町は、武士の堕落を嘆いた帝が、源義経らを招き文武二道を指南させる『鸚鵡返文武二道』をヒットさせる。だが人気戯作者の座は、『江戸生艶気樺焼』で注目を集めた山東京伝に脅かされつつあった。

 競争の激しい文庫書き下ろし時代小説の世界で長く第一線で活躍している著者は、明らかに若く勢いのある戯作者に追い抜かれることに不安を抱く春町に自身を重ねている。ただ、才能ある同僚、新しいスキルを身に付けた若手と成果争いをする状況はどんな仕事でも変わらないので、将来を案じて苦悩する春町には我が身を重ねる読者も多いはずだ。

『鸚鵡返文武二道』は、老中の松平定信が、文武の振興、思想の統制を進めた寛政の改革を皮肉っていた。春町が女性たちと織り成す艶っぽい場面を盛り込んだ本書も、清潔さや高い倫理を求める現代社会への痛烈なカウンターに思えた。

 幕府への反抗を貫いて処刑された講釈師の馬場文耕に憧れる春町は、自作の風刺に自信をもちながらも、激怒した定信からの呼び出しを恐れていた。戯作への風当たりが強くなると、春町と同じ武士兼戯作者の朋誠堂喜三二は江戸を去り、大田南畝は生きるために筆を折れという。言論統制を前に、春町がどんな決断をするかが、後半のポイントとなる。

 巨大な権力が、個人を圧殺する可能性は現代も捨て切れない。春町ら戯作者の選択は、追い込まれた時に権力に膝を屈するのか、すべてを失ってでも信念を曲げないのかを突き付けているのである。

(文/末國善己)
〈「STORY BOX」2018年8月号掲載〉
「草笛光子」という生き方。[前編]
知られざる裁判所の内幕『裁判官! 当職そこが知りたかったのです。―民事訴訟がはかどる本―』