伊藤朱里のおすすめ小説4選――現代女性の生きづらさを等身大で描く
2015年、「変わらざる喜び」で第31回太宰治賞を受賞し、同作を改題した『名前も呼べない』でデビューした伊藤朱里(あかり)は、若い女性たちの生きづらさをヒリヒリするような痛みをもって描いてきました。今回は、デビューからの全4作を紹介します。
『名前も呼べない』――性の多様性について、読者の固定観念を根本から覆す
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恋人が授かった初めての娘は、まもなく生後2ヵ月になるところだった
という一文で始まる本作は、電機メーカーの契約社員であった25歳独身女性の中村
「要するに不倫相手にガキが出来たことを隠し通された挙句、面倒くさくなったけど自分は悪人になりたくないからってこっちが身を引くように踊らされたんでしょ?」
ということになります。和之は、恵那が不倫相手に対して怒らず、物分かりのよい振りをしていることが許せません。和之は、昼は男性の恰好をして働いていますが、実は、女装の趣味があり、その際は、「メリッサ」と名乗っています。
異性装としての彼の主義主張、あるいはその他の性嗜好、たとえば好きになる相手は男なのか女なのか両方なのかそういうことを、私はメリッサに訊かない。あちらが私の恋人の性別を、いちいち確認しないのと同じだ
メリッサの叱咤激励もあり、失恋の痛手から徐々に回復してゆく恵那。ところが、作品終盤になって、読者は自分がとんでもない誤読をしていたことに気づきます。けれど、著者は、読者を罠にはめようとしたわけではありません。作品を丁寧に再読すれば、むしろ、読者がミスリードしないように、ヒントを与えてくれています。例えば、恵那は幼少期に父から暴力を受けたために、他者から身体を触られることに恐怖を感じていて、ましてセックスなど不可能であること。実際、恋人とは一度も肉体関係を持たなかったこと。
みんな当たり前みたいに、男と女は結婚して子ども作るのが当然で、結婚してる男と女が近づいたら不倫で、(中略)そんな目でしか物事を見ないで、見るだけならまだしも当たり前みたいに押しつけてきて、そんな中で生きなきゃいけないのが最悪って言ってるの
昨今、LGBTという言葉をよく耳にするようになり、性的マイノリティへの理解があると思っている人も多いでしょう。けれど、不倫は男性上司と若い女性部下がするものだという固定観念があるからこそ、本作の誤読が生じてしまうのです。読者は、性の多様性について、自身の想像力の限界を突きつけられることになるでしょう。
『稽古とプラリネ』――ようこそ、お稽古事体験教室へ
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主人公は、29歳のフリーライター・
例えば、茶道教室。抹茶を点てれば、年配の女性から、「竹のお味がしました」と指摘され、畳の上を歩けば、「いまのかたは足が長くていらっしゃるから」と遠回しな嫌味を言われますが、持って回った言い方は景以子に通じません。おまけに、正座は大の苦手。
細身のパンツはまったく正座に向いていない。ぴったりした布地が血管を圧迫し、魔球養成ギプスでもつけているようだ。正座なんて足の指がゆがむというし、このバリアフリーのご時世、いまのライフスタイルにも合わないし、ろくなことがない
形式的な決まりの多い茶道に対して、現代っ子の景以子は、「そんなことして何の意味があるの?」と思います。それを察した先生は次のような言葉をかけます。
「ルールがきちんと決まっているって、じつは楽なことだから。もう、とにかくいまはね、なんでも自由な時代でしょ。こちらがありがたいと思うことで別の人はとっても傷ついたり。でも、あらかじめ決まったお作法がしっかりしていれば、あとはそれを丁寧にやりさえすればいいんですよ」
他に、ピラティス教室では、取材のために特等席に通された景以子に対し、常連の受講生が、悪気がないふりをして、わざと背中にヨガマットをぶつけてくるなど、意地悪にも遭遇しますが、雑誌の連載は順調に進みます。
そんな折、景以子の書いた記事を読んだ、元同級生・
「ケイちゃん、ライターやってるんだってね。うらやましいな、華やかで、楽しそうで。わたし生きるのに必死で、あんな生活する余裕あったことないから」
貧しい家庭に育ち、現在は精神科に通院中の芹奈から、お稽古事が出来るだけでも恵まれていると言われた景以子。返す言葉を失う景以子に代わって、その場に居合わせた景以子の友人・
「あなたの気持ちもわからなくはないの。ああいう雑誌とか見て泣きたくなる気持ち。どん底のときは幸せそうな人みんな、とくに優雅にお稽古事なんかやってる人間なんか、全員死んじゃえって思うよね。生きるのってつまらないよね。なんでわたしばっかりって思うよね。わかるよ、わたしもだから。だけど、そう言われても嬉しくないでしょ? 『みんなそう』なんて、慰めにもならないもんね
辛辣ですが、
『緑の花と赤い芝生』――現代女子が幸せになるための、正しい努力とは?
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本作のヒロイン・
好き嫌いより先に「顔を覚えられないかもしれない」という危機感だった。万人に嫌われないために好感度で個性を塗りつぶしたような、この手の美人はかなり判別の難易度が高い。清楚なベージュのワンピースといい、丹念に巻いた髪や睫毛といい、すべてがどこかで見たような感じでお手上げだった。ただ、当たり障りのないそれらひとつひとつがリスクヘッジのように分散され、その女っぷりを巧妙に底上げしていることだけが伝わってきた
自分にはない、女子力を持つ杏梨に内心複雑な志穂子。一方の杏梨は、小姑となる志穂子のハイスペックぶりに引け目を感じてしまいます。すると、志穂子は「あたしのことは男だと思ってください」と自虐的なジョークを言い、仕事一筋で恋愛に縁遠い自分を茶化してみせます。しかし、それに対して、杏梨は単純に喜べません。
「男だと思ってください」――わたしは昔から、自分のことを「男っぽい」とか「男みたい」と
喩 える女の人を信じられない。謙遜のつもりならどうしてそういう言い方になるのかわからないし、ほとんどの場合、なんだか見下されている気分になる。「わたしはあんたたちとは違う」くらいの意味で使ってんのよ
相容れないふたりは、距離を置いた付き合いをするはずでした。ところが、志穂子が一人暮らしをする社宅に空き巣が入り、心配した志穂子の親が、当面のあいだ、兄夫婦の新婚家庭に居候させようと計画してしまいます。ひょんなことから同居をする羽目になった志穂子と杏梨。距離が近くなった分、相手への赤裸々な嫌悪感を抑えきれなくなります。
好きなことを全力でやろうとするとなぜかまわりにいる人を、特に同性を傷つけてしまう。それもこれも自分が男だったら回避できた事態だ。
甘い声音、一分の隙もない笑顔、すべてがうわっつらで嘘くさくて、彼女を信用できたことなんか一度もなかった。自分の意志なんかないような顔をしてなにひとつ痛い思いをせず、そのくせ平気で人を踏み台にしてまわりの支持を集める姿にイライラしていた
大人の無邪気さは、成熟の裏返しだと思う。賢ぶって人の言葉を深読みしたって、なんにもいいことなんてない。わたしはそれを、よく知っている。
仕事と学歴をかさにきてあからさまに上から目線で、彼女を信用したことなんか一度もなかった。恵まれた家庭を顧みず、すべてを持っていることに無自覚なまま、人を追いつめる鈍感さにイライラしていた
専門的な仕事に、男性に引けを取らないくらい打ち込むこと。プロ意識を持って主婦業をこなし、温かな家庭を築くこと。それぞれが正しいと信じてやってきた努力が、ときに、異なった立場の誰かを傷つけているのだとすれば……。現代の女子が幸せになるための努力とは何かを考えさせられる一冊です。
『きみはだれかのどうでもいい人』――職場の人間関係に悩むすべての人へ
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舞台は地方都市の県税事務所。そこで働く様々な立場の女性たちの視点から、職場の人間模様を綴ります。
3ヵ月前にアルバイトで採用された
「あの、中沢さん。すみません」
「はい、なんでしょうか」
「あの、このクリアファイルなんですけど。色がついているものや使用済みのものは分けておく、ってことだったんですけど、未使用で透明だけどロゴが入っているものは、どうすれば……」
こんなときになんでそんなどうでもいいこと訊くんだろう。
「須藤さん。少し、周囲の状況を観察する癖をつけてもらいたいんですが」
幼い妹を注意するように、優しい口調を作っていた。それなのに須藤さんは、みるみるうちに目を潤ませた。
「少しは頭を使ってください、まわりをよく見ていればなにを優先すべきかわかるでしょ?」
空気の読めない須藤は、他にも、職員たちが仕事に忙殺されている最中に、自分だけ自販機に飲み物を買いに行き、そこの機械が故障して紙コップが出てこないなどと言い、周囲をイラつかせます。
間もなく須藤は欠席が続き、そのまま退職します。須藤の両親は、娘が職場で過度のストレスを受けて精神的に参ってしまったと、訴訟も辞さない様子。須藤は、実は、職場に録音機を持参しており、そこには、次のような女性の声が記録されていました。
人に迷惑をかけ、疎まれるばかりで、あなたでなくてはならない役割があるわけでもない。なぜ平気で生きていられるのか、まっとうな神経をしていれば悩む気持ちはわかります。自殺は後始末が大変なので、失踪がいいですね。もう一度ここ(事務所の書庫。外から閉められると内側からは開かない)に閉じ込めてさしあげましょうか? だれにも迷惑をかけない場所に、永遠にいることができますよ
この声の主は誰でしょうか? 優等生で県庁に首席入庁したものの、挫折知らずで弱い人の気持ちが分からない中沢環でしょうか? あるいは、育ちのよい娘が柄にもない税金の取り立てという部署に配属され、県民からの「公務員は気楽でいい」「死ね」などの暴言に精神を病み、一時休職していた
パワハラと指導の違いなど、現代の職場での人間関係についての教科書ともなる一冊です。
おわりに
現代社会で真摯に生きようとすればするほど傷つかずにはいられない女性たちから、目をそらさずに描き切る伊藤朱里の作品。若い女性たちの心の叫びともいうべき、これらの小説を読み終えたとき、読者は必ず、そこに救いを見出せるでしょう。
初出:P+D MAGAZINE(2021/10/27)