採れたて本!【デビュー#14】
逢坂冬馬のベストセラー『同志少女よ、敵を撃て』を送り出したアガサ・クリスティー賞から、ふたたび戦争を題材にしたすばらしい歴史サスペンスが登場した。
葉山博子(1988年、石川県金沢市生まれ)の第13回アガサ・クリスティー賞大賞受賞作『時の睡蓮を摘みに』は、権謀術数渦巻くフランス領インドシナ(とくに現在のベトナム北部)を舞台に、戦争に翻弄されるひとりの若い日本人女性の運命を描く。
主人公は、幼い頃に母を亡くし、父ひとり娘ひとりの父子家庭でのびのびと自由に育った滝口鞠。しかし、綿花貿易に携わる父がハノイ駐在所の所長として単身赴任することになり、鞠は内務省に勤める伯父の家に預けられる。1936年の春、女学校を卒業した鞠は、伯父から縁談を押しつけられるが、その話をあっさり蹴飛ばして、窮屈な日本を逃げ出し、父親のいる仏領インドシナへ向かう。
やがてハノイでひとり暮らしを始めた鞠は、ハノイ大学入学をめざしてフランス語を猛勉強。父親と懇意にしている日本総領事の手配で、外交官見習いの若い書記生・植田勇吉がなにかと手助けしてくれたこともあり、どうにかバカロレアに受かって大学に入学し、念願だった地理学を学びはじめる。
支那事変が影を落とすなか、新天地で自由を謳歌する鞠の前に、ひとりの青年が現れる。南亜洋行の商社マン、紺野永介。父から見合いするように勧められた当の相手だった。大学でフランス文学を学んだという紺野は、飄々とした態度で得体が知れない。
「鞠さん、また会いましょう。僕たちは、ひょっとすると似た者同士かもしれない」
そう言って去る紺野。どこか不穏な空気を漂わせる彼は、果たして何が目的なのか?
……というわけで、小説の序盤は明るい雰囲気。紺野の登場から、そこに少しずつエスピオナージュの色が混じってくる。たとえが古くてすみませんが、さしずめ、『はいからさんが通る』(大和和紀)+『南京路に花吹雪』(森川久美)というところ。抜群のリーダビリティで、否応なく物語に引き込まれる。
しかし、そうしたロマンティックなムードは、やがて戦争の波に押し流されてゆく。植民地支配の非情な現実と、第二次世界大戦のうねり。情報収集のため国境地帯へ向かった植田はスパイの疑いをかけられ国民党軍に拉致される(現実に起きた事件を下敷きにしているらしい)。
本筋は滝口鞠の物語だが、小説はそこからしばしば脱線する。たとえば、鞠と知り合う憲兵・前島の人となりを生い立ちまで遡って長々と語りはじめたりするのだが、8人きょうだいの3男として生まれた彼の人生は圧倒的な迫力とリアリティでぐいぐい立ち上がってくる。
さまざまな材料の個性が強すぎて、一本の長編にうまくまとめきれていない憾みはあるものの、個々のパーツを描く筆力は、直木賞候補になってもおかしくないレベル。これだけ書ける人はベテランでもなかなかいないだろう。読み応え満点の戦争小説だ。
『時の睡蓮を摘みに』
葉山博子
早川書房
評者=大森 望