【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール

池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の3回目。薩長の藩閥政治に対抗し、初の政党内閣を樹立した、大隈重信について解説します。

第3回

第8・17代内閣総理大臣

大隈重信おおくましげのぶ1838年(天保9)~1922年(大正11)

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Data 大隈重信

生没年 1838年(天保9)2月16日~1922年(大正11)1月10日
総理任期 1898年(明治31)6月30日~11月8日
1914年(大正3)4月16日~16年(大正5)10月9日
通算日数 1040日
所属政党 憲政党
出生地 佐賀市水ヶ江みずがえ(旧佐賀城下会所小路かいしょこうじ
おもな経歴 外国事務局判事・大蔵大輔おおくらだゆう民部みんぶ大輔・参議・大蔵きょう早稲田わせだ大学学長
歴任大臣 外務大臣・農商務大臣
ニックネーム 熊・わに・100ワット・早稲田の大風呂敷
墓所 東京文京区の護国寺ごこくじ、佐賀市の龍泰寺りゅうたいじ

「在野」の長い民衆政治家。国民に愛されました。

立憲りっけん主義を唱え政治の近代化に挑んだのが、大隈重信です。当時、政府の中心だったのは薩長藩閥さっちょうはんばつで、元勲げんくん元老げんろう)による専横に国民の反発が強まっていました。大隈は議会制民主主義の実現に向けて国会開設を主張し、「明治14年の政変」で下野げやしたのを機に政党を組織、わが国初の政党内閣を打ち立てたのです。新政府の大蔵卿おおくらきょうや外務大臣にあったときは、困窮こんきゅうしていた財政の立て直しや、不平等条約の改正にも取り組みました。また、「学問の独立」を掲げて東京専門学校(現早稲田わせだ大学)を設立し、人材の育成に力を注ぐなど、教育の分野でも多大な功績を残しました。
明るく闊達かったつな性格で、不屈の闘志にあふれた大隈は多くの国民の共感をよび、親しまれた政治家でした。

大隈重信はどんな政治家か 池上流3つのポイント

1、初の政党内閣を樹立

「明治14年の政変」で政府から追われた大隈は、自ら立憲改進党りっけんかいしんとうを組織し、在野で政党政治実現に向けて活動します。その後、外務大臣として政府に復帰したのち、自由党を率いる板垣退助いたがきたいすけと新たに憲政党けんせいとうを結成し、念願の政党内閣が実現しました。しかし、「隈板わいはん内閣」といわれた第1次大隈内閣は、十分な時間をかけずに合同した弱さをすぐに露呈し、4か月で総辞職へと追いこまれます。

2、殖産興業しょくさんこうぎょうを推進

新政府でまたたく間に参議さんぎ兼大蔵卿に上りつめた大隈は、政府の財政立て直しとともに、殖産興業(商工業の振興)に力を注ぎます。鉱山や製鉄、製紙などの官営事業を立ちあげる一方、国立銀行(民間の銀行)を設立し政府の資金による民間企業の育成をはかりました。大隈の積極財政策はインフレを加速させましたが、日本の資本主義発展の道筋をつけることにもなったのです。

3、早稲田大学を創設

野に下った大隈が政党設立とともに取りくんだのが教育でした。「学問の独立」を掲げ、在野的な自由主義精神に富む人間の育成をめざし、東京専門学校を創設します。これがのちの早稲田大学です。当初は改進党系の学校とみなされ、政府からさまざまな妨害を受けましたが、大隈らの懸命けんめいな努力で持ちこたえ、多くの優れた人材を輩出はいしゅつする名門校へと成長をとげます。

大隈重信の名言

わが輩は、文明の中心となってその成果を
発揚はつようするところのものは、政治だと信ずる。
ー「教化的国家を論ず」より

すべて進歩は矛盾むじゅんの間に行なわれる。
矛盾があれば衝突が起こる。波乱曲折の間に
人生は進歩していくものである。
ー『大隈侯座談日記』より

かえりみて過去の行程をおもうとき、その大部分は、多くは失敗と蹉跌さてつとの歴史である。
ー 『大隈侯昔日譚せきじつたん』より

人間力

◆ 卓抜な記憶力で相手を論破

佐賀の修業時代、出来の悪い学友よりも悪筆だとなじられたことから、大隈は生涯字を書かないことに決めたという。代わりに記憶力を駆使くしして必要なことをすべて暗記し、演説や討論の場では、メモなどいっさい持たずに当意即妙とういそくみょうに弁舌をふるうことができた。これが政敵との討論や外交交渉の場で威力を発揮したのである。

◆ ブレーンで藩閥に対抗

薩摩さつま長州ちょうしゅうの出身者と比べ、藩閥と組織をもたなかった大隈は、早くから政策集団ともいえるブレーンを形成し、自らの戦力とした。初期には自宅を「築地梁山泊つきじりょうざんぱく」とよばれる談論風発の場とし、鉄道事業構想もここから生まれた。「すべての進歩的施策はここから出た」と大隈は語っている。その後は福沢諭吉ふくざわゆきち門下らが大隈を支えた。

◆ 国民への目線を力に

在野の期間が長かったこともあり、大隈は雑誌などのメディアや全国各地の講演会を通じ、時代の空気につねに触れながら、国民の側に立って政治を論じつづけることができた。その結果、「民衆政治家」として幅広い層から支持を得ることができ、政権復帰を果たす力を得たのである。

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早稲田大学の大隈講堂
1927年(昭和2)の建設。重要文化財。大学のシンボルである時計塔の高さは、大隈が提唱した「人生125歳」説にちなみ125尺(約38m)であり、塔上の4つの鐘がいまも1日6回、美しいハーモニーを早稲田の町に響かせている。

(「池上彰と学ぶ日本の総理17」より)

初出:P+D MAGAZINE(2017/07/28)

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