【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール
池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の45回目。ポツダム宣言の受諾を果たし、終戦を実現した「鈴木貫太郎」について解説します。
第45回
第42代内閣総理大臣
鈴木貫太郎
1867年(慶応3)~1948年(昭和23)
自動車に乗りこんだ鈴木貫太郎。1945年10月撮影。写真/毎日新聞社
Data 鈴木貫太郎
生没年月日 1867年(慶応3)12月24日~1948年(昭和23)4月17日
総理任期 1945年(昭和20)4月7日~45年8月17日
通算日数 133日
出生地 大阪府堺市(旧和泉国大鳥郡伏尾)
出身校 海軍大学校
墓 所 千葉県野田市の実相寺
鈴木貫太郎 その人物像と業績
老体を押して組閣し、終戦を実現
海軍育ちの侍従長は二・二六事件を生きのび、
戦争終結の期待を担って77歳にして総理に就任、
機を逃さずポツダム宣言受諾を果たす。
●終戦へ天皇の「聖断」を導く
1945年(昭和20)8月9日夜、ポツダム宣言受諾の是非を決する御前会議が、急遽宮城地下の防空壕で開かれた。
沖縄が制圧され、本土への空襲もさらに激しさを増すなか、連合国はポツダム宣言を発し、日本に降伏を迫っていた。
鈴木貫太郎総理は、内心では即時受諾の意向だったが、本土決戦を唱える陸軍は承知せず、これに押されるかたちで同宣言を黙殺する声明を出した。
ところが、8月6日に広島に原子爆弾が投下され、8日にはソ連が日本に宣戦布告したことで、もはや即時受諾しか日本を救う道はないと鈴木は意を固め、御前会議の開催を上奏したのである。
会議で阿南惟幾陸軍大臣、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長は、連合軍による占領を小範囲、短期間にするなどの条件つきの受諾を主張した。一方、それでは連合国側が受け入れないと危惧した東郷茂徳外務大臣、米内光政海軍大臣、平沼騏一郎枢密院議長は、天皇の国法上の地位を変更しないことだけを条件とする受諾を訴えた。鈴木総理はみずからの考えを述べない。
議論は紛糾して3対3の主張は平行線をたどり、翌10日午前2時を過ぎた。すると鈴木が立ち上がり、玉座近くに進んで奏上した。
「議をつくすこと数時間に及びましたが、事態は一刻の猶予もない状況です。このうえは陛下の思し召しをおうかがいし、本会議の決定としたいと思います」
鈴木は会議の結論を天皇の「聖断」に委ねたのだ。陸軍を中心とする強硬派の反対を封じこめるための窮余の策だった。
「私は外務大臣の意見に同意である」と天皇はこれに答えた。一同は声もなく、粛然と襟を正した。
14日の御前会議で再度の聖断が下され、太平洋戦争は終結することとなったのである。
●「鬼貫」とよばれ日清・日露で活躍
鈴木貫太郎は1867年(慶応3)、和泉国大鳥郡伏尾(現大阪府堺市)に生まれた。関宿藩(現千葉県野田市)藩士であった父・由哲が、飛び地の和泉国に出向していたときに生まれた子であった。
心優しい少年だったという鈴木を両親は医者にしたかったが、本人のたっての希望で海軍兵学校に入学させた。1889年(明治22)6月、鈴木は少尉に任官され、海軍軍人としてのスタートをきった。
日清戦争に従軍した鈴木は、勇猛果敢な活躍で「鬼の貫太郎」「鬼貫」との異名をとり、幅を利かせる薩摩閥に対抗するように、奮闘を重ねていく。
その後、海軍大学校を卒業し、日露戦争では第2・第5・第4駆逐隊司令を歴任し、水雷戦術を駆使して日本海海戦での勝利に貢献した。
そして、第2艦隊司令官、舞鶴水雷隊司令官、海軍省人事局長などをつとめ、1914年(大正3)、鈴木は海軍次官に就任した。海軍高官による汚職が表面化したシーメンス事件の後始末のため、抜擢されたのである。
「自分には政治は向かない」と一度は辞退した鈴木だったが、綱紀粛正を掲げて海軍大臣に就任した八代六郎大将の熱意にほだされ、海軍の人事刷新に大なたを振るった。
1923年(大正12)、海軍大将に昇任した鈴木は翌年から連合艦隊司令長官をつとめ、1925年(大正14)、海軍の最高位のひとつである軍令部長にのぼりつめた。そろそろ自分の軍歴は終わりに近づきつつあると、鈴木は感じていた。しかし、ここから思いもかけない方向に人生の舵は切られるのである。
●二・二六事件で瀕死の重傷を負う
1929年(昭和4)、鈴木は予備役に編入され、侍従長に就任する。
鈴木の風格と高潔な人柄に魅せられた牧野伸顕内大臣が、「武骨な自分にはふさわしくない」と拒む鈴木を説得し、引き抜いたのである。
鈴木は、忠節無比の臣として若き天皇に仕えた。天皇の食事が一汁二菜と知ると、「陛下以上のごちそうを食べてはもったいない」と、三菜以上は口にしようとしなかった。
しかし、天皇の意思に忠実であろうとするあまり、ロンドン海軍軍縮条約を覆そうとする軍令部長を追い返したり、満州事変で朝鮮軍が林銑十郎司令官の独断で越境した件を追認させようとする参謀総長の上奏を阻止するなどして、陸海軍との間に軋轢が生まれていった。
鈴木は、天皇をあやつり悪政を行なおうとする「君側の奸」と非難されるようになる。
国家を牛耳ろうとする軍部の動きはますます活発となり、三月事件、十月事件とクーデター未遂事件が続いた。
そして、首相以下政府の要人を殺害し昭和維新の断行を目論む二・二六事件が起こり、鈴木も暗殺の標的となったのである。
1936年(昭和11)2月26日の朝4時、鈴木は女中の声に目を覚ました。兵隊が塀を乗りこえ、侵入してきたというのだった。
銃を構えて迫ってくる兵士に、鈴木は毅然と「理由を聞かせてもらいたい」と語りかけたが、「時間がありません」と指揮官は答え、部下に命じて鈴木を銃撃した。4発が命中し、おびただしい血を流して鈴木は倒れたが、奇蹟的に一命を取り止め、反乱軍は3日後に鎮圧された。
●「永遠の平和、永遠の平和……」
傷の癒えた鈴木は復職するが、まもなく侍従長を退任し、兼務していた枢密顧問官専任となった。
その後、枢密院副議長、そして議長に任ぜられるが、その間に太平洋戦争が勃発する。
劣勢に立たされた日本軍が徐々に追いつめられるなか、講和を実現できず進退きわまった小磯国昭内閣が退陣すると、戦争終結内閣を率いるにふさわしい総理として推挙されたのが鈴木だった。天皇と重臣たちの説得によって、77歳の老総理が誕生することとなった。
鈴木は一刻も早く講和のテーブルに着きたかったが、抗戦論者たちに悟られないよう、表向きは戦争継続を表明しながら、その機会をうかがっていた。そして、機をみて天皇の「聖断」をあおぎ、陸軍などの反対派を抑え、日本を終戦へと導いたのである。
天皇による玉音放送が流される8月15日の朝、鈴木の私邸は終戦に反対する国民神風隊の襲撃を受けたが、鈴木と家族は間一髪で逃れることができた。
大役を終えた鈴木内閣は、その日、総辞職した。
終戦直後の日本人の多くは敗北を受けとめることができず、鈴木を非難する声も多かったため、警察の指示で鈴木と家族は転居を繰り返すこととなった。そして、3か月後にようやく故郷の関宿町に落ち着くことができた。
その後、鈴木は請われて枢密院議長に一時復帰もするが、退任後は関宿で畑仕事を楽しみながら余生を過ごした。
1948年(昭和23)4月17日、病床についていた鈴木は、「永遠の平和、永遠の平和……」とうわごとのように2度唱えたのち、世を去った。80歳だった。
海軍軍令部長時代の鈴木貫太郎
1925年9月撮影。写真/毎日新聞社
防空頭巾を被って街を歩く鈴木総理
内閣を組閣後の1945年4月撮影。写真/毎日新聞社
(「池上彰と学ぶ日本の総理29」より)
初出:P+D MAGAZINE(2018/06/15)