【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール
池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の32回目。第2次護憲運動に倒れた「清浦奎吾」について解説します。
第32回
第23代内閣総理大臣
清浦奎吾
1850年(嘉永3)~1942年(昭和17)
元老西園寺公望(写真向かって右)のもとを訪れた清浦奎吾総理。1924年(大正13)5月25日。写真/毎日新聞社
Data 清浦奎吾
生没年月日 1850年(嘉永3)2月14日~1942年(昭和17)11月5日
総理任期 1924年(大正13)1月7日~6月11日
通算日数 157日
出生地 熊本県山鹿市鹿本町来民(旧肥後国山鹿郡来民村)
出身校 咸宜園
歴任大臣 司法大臣、農商務大臣、内務大臣
墓 所 熊本県山鹿市の明照寺
清浦奎吾はどんな政治家か
護憲運動に倒れる
同郷の井上毅を尊敬していたため同じ司法省に進み、優秀な官僚となります。そこで山縣有朋に見出され、その後は山縣閥の政治家になりました。1914年(大正3)に総理に推薦されますが、海軍との予算折衝に失敗し断念。73歳で2度目の推薦を受けて総理の座に就きました。しかし、第2次護憲運動によって半年足らずで総辞職します。
清浦奎吾 大仕事・大一番
総選挙を視野に入れた貴族院議員中心の組閣
公正な総選挙へとつなぐため、清浦は非政党内閣を組閣。
世論を敵に回し、結果的に護憲の気運をいっそう高めた。
●貴族院内会派「研究会」
清浦奎吾は組閣の大命を受け、貴族院の院内会派である研究会に協力を要請した。
研究会とは、帝国議会が開設される直前に結成された会派であり、はじめは「政務研究会」と名乗っていた。研究会の名称を用いるようになったのは、結成の翌年、1891年(明治24)からである。初期は会員が40名ほどだったが、やがて約170名を擁する大会派となる。
とくに、勢力拡大に手を貸したのが、勅選議員だったころの清浦奎吾である。山縣有朋の意を酌んで、衆議院の政党と対抗できる勢力をつくろうとしたのであった。
研究会の意向は政策をも左右するようになり、第4次伊藤博文内閣などは増税案をめぐる研究会との攻防で窮地に追い込まれている。
この研究会は、原敬内閣のころからは衆議院の立憲政友会と密接な関係をもつようになる。政友会を中心とした原内閣では研究会幹部ひとりが入閣しているし、加藤友三郎内閣でも4人が入閣している。
清浦奎吾が研究会の協力を得ようとしたのは、研究会と同時に政友会の支持も必要としたからだった。
●ねらいは中立的な総選挙
ところが、政友会は内部で高橋是清を中心とした総裁派と反総裁派とが大きく分裂し始めていた。総裁派は、あくまで清浦内閣打倒をめざし、反総裁派は研究会に協力しながら党の政策を採用させていくという考えである。
結局、反総裁派の床次竹二郎らが政友会を離れて政友本党を結成し、与党として清浦内閣を支えることになる。第2次世界大戦後、総理大臣となる鳩山一郎も、このときに床次らと行動をともにしている。研究会は清浦内閣に3人の閣僚を出すことになる。
一方で、清浦は貴族院内のほかの会派も巻き込む。交友倶楽部の水野錬太郎を内務大臣に、茶話会の江木千之を文部大臣にすえたのが良い例である。交友倶楽部は政友会と親しく、茶話会は憲政会寄りの会派である。
貴族院、それも研究会を中心とした組閣であったものの、清浦のおもなねらいは5月の総選挙をスムーズに行なうことにあった。しかし、この組閣が「特権階級内閣」と批判され、第2次護憲運動へとつながっていく。
清浦内閣倒閣運動
1924年(大正13)1月30日、大阪市中央公会堂で行なわれた、憲政擁護関西大会。「特権階級内閣」は国民の反発を受け、大勢の市民が結集した。写真/毎日新聞社
日本新聞協会会長を務めていたころの清浦
1929年(昭和4)9月、会合に出席するため東京駅で列車を待つ清浦(中央)。右は鍊子夫人、左は見送りの光永星郎日本電報通信社(現電通)社長。写真/共同通信社
(「池上彰と学ぶ日本の総理22」より)
初出:P+D MAGAZINE(2018/03/09)