【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール
池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の39回目。日独伊三国同盟に反対し、早期終戦に力を尽くした「米内光政」について解説します。
第39回
第37代内閣総理大臣
米内光政
1880年(明治13)~1948年(昭和23)
写真/盛岡市先人記念館
Data 米内光政
生没年月日 1880年(明治13)3月2日~1948年(昭和23)4月20日
総理任期 1940年(昭和15)1月16日~7月22日
通算日数 189日
出生地 岩手県盛岡市愛宕町(旧岩手県南岩手郡三ツ割村下小路)
出身校 海軍大学校
歴任大臣 海軍大臣
墓 所 盛岡市の円光寺
米内光政はどんな政治家か
日独伊三国同盟に反対
海軍出身。連合艦隊司令長官をへて、林銑十郎内閣から平沼騏一郎内閣まで海軍大臣を務めました。米内は、ドイツ・イタリアに接近しすぎればイギリス・アメリカとの対立が激化すると考え、陸軍の進める日独伊三国同盟には一貫して反対の立場をとっています。陸軍の反発で総理を退陣してからも、日米開戦に反対。終戦のためにも力を尽くしました。
米内光政 その人物像と業績
日独伊三国同盟に反対し、早期終戦に尽力
海軍の穏健派として陸軍に対峙し、日独伊三国同盟に徹底して反対。
日本が国際的対立に巻き込まれるのを回避しようとした。
総理退陣後は終戦工作、戦後処理に尽力する。
●地道に努力し、上りつめた人
米内光政は1880年(明治13)3月2日に、旧盛岡藩士・米内受政の長男として生まれた。母トミは奥家老の娘で、米内は厳しくしつけられた。
米内は周囲から「お屋敷の若様」と呼ばれていたが、5歳のときに火事に遭い、屋敷は焼失。さらに父受政は事業に失敗したあと発明に入れ込み、家族を残して上京してしまったため、一家は貧窮した。トミがどんなに裁縫仕事をしても苦しく、海藻入りの黒いごはんしか食べたことがなかった。米内も賃仕事をして家計を助けたという。
1894年(明治27)に盛岡中学に入学。無口でおとなしいが明るい少年だった。家計への負担を少しでも減らそうと1898年(明治31)に中学を中退し、海軍兵学校に入校した。1901年(明治34)に海軍兵学校を卒業。1903年(明治36)に海軍少尉として任官。1911年(明治44)に、砲術学校の教官を務めたときに、山本五十六と出会う。山本は米内の同僚指導官だった。
そして、1914年(大正3)に海軍大学校を卒業すると、翌年、ロシアに大使館付武官事務補佐として赴任した。
米内は、けっして成績のよいめだつ生徒ではなかった。兵学校では「グズ政」とあだ名されていたし、軍人となってからも派手な戦功をあげたわけではない。しかし、地道にこつこつというのが母の教えであり、米内の信条だった。米内は努力を重ね、閑職にあってもくさることなく仕事をまっとうし、しだいに重用されるようになっていく。佐世保と横須賀の鎮守府司令長官をへて、1936年(昭和11)12月には、とうとう海軍最高の栄誉とされた連合艦隊司令長官となる。
●条約反対三羽ガラス
翌1937年(昭和12)2月、林銑十郎内閣成立にともない、米内は海軍大臣となる。右傾化し、統制のゆるんだ海軍を立て直すため、担ぎ出されたのである。連合艦隊司令長官を3か月で降りねばならず、「全くありがたくない」とぼやきながらの就任だった。このとき、米内は次官であった山本五十六を留任させた。10月には井上成美が海軍省軍務局長となり、この3人が中心となって海軍を統制していく。
「なにもせんじゅうろう内閣」といわれた林内閣は4か月で退陣。第1次近衛文麿内閣が発足する。その1か月後に中国で盧溝橋事件が発生。米内は海相として「陸軍派兵は全面戦争につながる」と指摘したが、内閣は現地で停戦協定が成立したにもかかわらず派兵を決定。こうして解決の見込みのあった局地的な事件が、日中戦争へと拡大していく。
第1次近衛内閣でもうひとつ大きな課題となったのが、日独伊三国同盟問題である。1938年(昭和13)夏ごろから浮上したこの問題に、米内はイギリス・アメリカとの対決回避のため山本・井上らとともに終始反対で、「条約反対三羽ガラス」と呼ばれた。米内は続く平沼騏一郎内閣でも、盟友たちとともに同盟を結ばせまいと踏ん張った。
平沼が退陣するとともに、海相を降りた米内だが、続く阿部信行内閣は4か月余で瓦解。1940年(昭和15)1月16日、後継総理として米内に大命が下る。米内は予備役に退き、これを受けた。
●陸軍の反発必至の内閣で
米内内閣の誕生には、ドイツ・イタリアとの接近を懸念する昭和天皇の意向を受けた湯浅倉平内大臣が深くかかわっていたという。たしかに、陸軍の政治への介入が強まるなかで、米内内閣はもっとも陸軍の影響の薄い、自由主義的な色彩をもった内閣だった。逆にいえば、陸軍が反発するのは必至でもあった。
就任から5日後の1月21日、浅間丸事件が発生。日本近海での事件は国民の反英感情を強く刺激した。
その浅間丸事件の交渉のさなかに起こったのが、立憲民政党の衆議院議員斎藤隆夫による反軍演説問題である。日中戦争を批判した斎藤の演説は、議会および内閣への陸軍の反発をさらに強めた。
4月以降のドイツによるヨーロッパでの破竹の進撃が伝わってくると、陸軍は、再び日独伊三国同盟締結を要求するようになった。
一方、日中戦争は、3月に南京に汪兆銘政権が誕生するものの、全面講和は遠かった。近衛文麿は日中戦争の解決のため一国一党をめざして、「新体制運動」に乗り出す。陸軍をはじめ各政党はこぞって近衛待望論に傾いていった。米内では三国同盟は実現しないと考えた陸軍が倒閣を図り、米内は退陣を余儀なくされる。その後、第2次近衛内閣をへて東条英機が組閣し、太平洋戦争が始まった。
●ポツダム宣言受諾、終戦へ
米内が政界に返り咲くのは、1944年(昭和19)7月。異例なことに陸軍の小磯国昭とともに組閣の大命を受け、小磯・米内連立内閣として副総理格の海相となった。まさに太平洋戦争末期、政治・軍事に行き詰まって退陣した東条内閣のあとを受けてのことであった。
1945年(昭和20)4月に成立した鈴木貫太郎内閣でも、引き続き海相を務めた。
米内はこの時期、「天皇の真意は和平にある」と感じ、ひたすらに太平洋戦争終結に務めた。終結への道筋が見つからないなか、7月26日に対日ポツダム宣言が発せられた。さらに、8月6日に広島に、9日には長崎に原爆が投下される。
米内は講和を主張するが、阿南惟幾陸相らはポツダム宣言即時受諾に反対し、本土決戦を主張。ようやく8月14日の御前会議(天皇臨席の最高戦争指導会議)で、国体護持のみを条件としたポツダム宣言の受諾が決定。こうして終戦の詔書が発布されたのである。
戦後の東久邇稔彦・幣原喜重郎内閣で米内が海相に留任したのは、海軍の抗戦派を統制し、混乱を抑える責任があると考えたためだった。戦犯として拘束されることはなく、極東国際軍事裁判(東京裁判)では、信念に基づき、みずからの立場を徹底的に主張した。
そして、戦後の混乱が収まりつつあった1948年(昭和23)4月20日、米内は68歳の生涯を閉じた。
1937年(昭和12)1月、連合艦隊司令長官として戦艦「長門」に乗艦する米内光政中将。写真/盛岡市先人記念館
海軍大臣親任式の米内光政
1937年(昭和12)2月2日、米内は林銑十郎内閣の海軍大臣として初入閣。この人事には、海軍次官を務めていた山本五十六の強い推薦があったという。写真/毎日新聞社
米内光政、山本五十六の国葬で葬儀委員長となる
1943年(昭和18)6月5日、連合艦隊司令長官
(「池上彰と学ぶ日本の総理27」より)
初出:P+D MAGAZINE(2018/04/27)