◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第1話 Welcome to Japan〈後編〉
ワシントン条約は絶滅が危ぶまれる野生動植物の国際的な取引を規制することで保護を図るための条約だ。希少性に応じて三ランクに分類、これらを条約の附属書Ⅰ、Ⅱ、Ⅲに分けてリストアップし、合計約三万五千種の動植物を取引制限の対象としている。
川相は今、二匹をⅠ類だと言った。Ⅰ類は一番希少性が高く、商業目的の国際取引が制限されている。各国の政府機関の輸出許可書・輸入許可書を得たうえで、生体の取引は学術研究目的のみ、それらを材料に使った加工済みの製品の商業取引に関しても輸出入許可書が交付される。
残る十三匹はⅡ類だという。絶滅の恐れはⅠ類ほどではないが、その種やその種由来の材料が違法な手段で捕獲や採取、取引をされないように規制されていて、商取引の際には輸出国の輸出許可書が必要だ。
「書類は? ああ、アウトっすね」
どこか人を舐めているようにも聞こえる軽やかさで川相が言った。アウト──違法を表しているのだろうか。
「ワシントン条約に該当する動物を輸入する際には、輸出国が発行するCITES輸出許可書の原本の写し二通と経済産業省の輸入承認証、又は事前確認書の原本の写し二通、輸入契約書の五枚の書類が必要です。今回は二種類いるのに一組しかない」
英の説明に納得する。
川相が指を伸ばした。石井の持つ書類の一点を指すと、「十五匹ってなってるんで、インドホシガメもアウト。書類も偽造だから、二つともワシントン条約違反で完全アウト」
言い終えた川相の唇の端が上がっていて、微笑んでいるように見える。
「応援要請。審理官にワシントン条約違反で取調案件と伝達。──別室にて、改めてお話を伺わせていただきます」
石井は待機中の検査官に指示を出すと、続けて男に向かって宣告した。
台の上のスーツケースを重田と鈴木が閉めていると、機動班の五人の男性検査官が到着した。石井を先頭にスーツケースを男に持たせて五人で取り囲むようにしてCIQ棟へと移動し始める。検査台の上にカメと石の載ったトレイが残されていた。とうぜん取調室に運ぶはずだ。
「運びましょうか?」
槌田は協力を申し出る。
鈴木の了承を得て、一番奥のホウシャガメの載ったトレイを取ろうと手を伸ばす。だが指が触れる前に、違う手が伸びてきてトレイをつかんだ。
「これ、僕が持って行きます」
口の端だけ上げて川相が笑う。愛嬌全開の笑顔に見えるが、丸い瞳はどこか冷たい。川相が首だけ回して「英さん、もしかして出戻り?」と話し掛けた。俊敏な動きと、手にしているのが五匹のカメというのも相まってますますカワウソに見えてくる。
「いや、まだ本関だよ。彼は動物検疫の川相君。爬虫類や両生類に詳しいので、何か出て来たときには力を借りている」
「ども、川相です」
ぺこりと川相が頭を下げる。思いのほか礼儀は正しい。あわてて自己紹介をする。
「槌田で……」
「警察からの出向の人?」
言い終える前に言い当てられて「ああ」と答える。
「だと思いました」
言い終えると口の端を上げた。表情は笑顔に見える。が、やはりどこか人を舐めたようにも見える。
「あの、先に言っておきますけれど、僕、こういう顔なんです。決して誰かを舐めてるとかじゃないんで」
考えていたことを当てられて槌田は面食らうのと同時に、唇の端が上がった顔の造りなのだと気づいた。
「それと、なんか生意気なヤツって思われちゃうことが多いんですけれど、顔と同じでそんなつもりはまったくないです」
「話し方だって。それとぉ、ですけれどぉ、って、母音を伸ばすからだよ」
笑いながら重田は川相のマネをした。確かにそうだ。
「そんなひどくないですよ」
不満そうに川相が言い返した。だがやはり少しだけ母音が残る。
「カワウソ、ありがとね」
検査室を出て行こうとする鈴木が川相に感謝の言葉を伝えた。
「いえ、全然」
答えながら川相はトレイの上のカメを見つめている。
「これから先、インドホシガメの輸入は増えますよ」
「そうなの?」
鈴木が立ち止まる。
「今はⅡ類だけれど、また乱獲されて数が減ってきているんで、分布地のバングラデシュ・インド・セネガル・スリランカの四国が、次の条約締結国会議でⅡ類からⅠ類への昇格を提案するのが決まっているんですよ。そうしたら確実に昇格になる」
丸い目でカメを見つめて川相が続ける。
「今、国内CBだとこのサイズで一匹三万円以上するけど、Ⅰ類昇格後の来年六月頃には十倍くらいまで跳ね上がるんじゃないかな」
Ⅱ類の今はまだきちんと許可を取れば輸入は可能だが、Ⅰ類になったら商業取引は出来なくなる。希少価値が上がれば価格は高騰する。個人で飼育したい好事家だけでなく商売として利益を得ようとする者も含めて、Ⅰ類に上がる前に入手しようとする者は増える。それは同時に密輸も増えることを示唆していた。
一匹、三万円か。考えながら槌田はトレイの上のカメを見る。高いのか安いのかが分からない。Ⅱ類で三万ならば、Ⅰ類のこの二匹はいくらなのだろう。
「こっちのカメって、いくらするのかな?」
「このサイズなら八十万円くらいですかね。ホウシャガメはマダガスカル島に生息する固有種で、育てば背甲がドーム状に高く盛り上がって、綺麗な柄と合わせて世界で一番美しいカメって呼ばれています。今もっとも入手しにくいリクガメの一つなんです」
出て来た金額に、思わず槌田はカメに見入る。川相の持つトレイには五匹のカメが載っている。うち二匹は八十万円で、残りは三万円。総額で百六十九万円だ。
「八十万円が二匹と三万円が十三匹、全部で百九十九万円。関税なしの消費税だけだから十五万九千二百円か」
脱税額を算出した重田がさらに続ける。
「とは言っても、今回は支払ってそれで済む話にはならないでしょうけれど」
「今回は?」
槌田は重田に訊ねた。
「販売目的でない場合、あくまで個人所有目的で、現地で動物の生態に問題はないと言われて買って来てしまったのなら悪質ではないし、知らなかったが適用されるので、条約違反にはならずに終わりになります」
今朝、摘発されたイヤフォンと同じだ。その場で放棄するか、自分で費用を負担して現地に送り返すか、正式に輸入許可を得るまで有料で業者に預かってもらうかの、三つのうちのいずれかを選択して終わりとなる。
「ワシントン条約違反って、五年以下の懲役又は五百万円以下の罰金ですよね?」
「でも、条約違反の輸入は外国為替及び外国貿易法違反にもなるから、五十万円以下の罰金又は半年以下の懲役もつくよ」
川相の問いに英が同意して、さらに補足する。
「動物の生体密輸の場合、死んじゃうことも多いじゃないですか。こいつらだって、どれだけ助かるか分からない。なのに、罪、軽くないですか?」
声が高くて語尾が伸びるせいで軽く聞こえるが、川相の怒りは伝わってくる。
「もっと罪を重くすればいいのに」
槌田も同意見だ。そもそも法は破ってはならない。それでも利益のために破る者は後を絶たない。罪を重くして抑止が出来るのならば、そうするべきだと常々思っている。
「同じ目に遭わせちゃえばいいのに。紙で巻いて石と一緒に布の中に入れて、さらにでっかいスーツケースみたいな入れ物に閉じ込めて、貨物室で飛行機輸送しちゃえばいいんだ」
言い終えた川相は笑顔だった。それまでとは違って、今回は意識して笑っている。
「もちろん、糞尿の臭いで気づかれないために、その前の一週間は絶食」
川相の笑みはさらに満面に広がっていた。自然にしていても笑顔に見える顔の造形だが、怒るとさらに笑顔に見えるらしい。だが目は暗く冷たい。底知れぬ怖さを孕んだ不穏な笑顔に、槌田は引きつる。
「そうなんだ、それならこれからさらに重点注意強化しなくちゃね。ありがとね!」
重ねてお礼を言うと鈴木はあっさりと検査室を出て行った。
「取調には同席しないんですか?」
「僕と石井さんが行きます」
重田が手を上げて答える。
「女性の検査官の方が男性よりも少ないので、どうしても検査優先なんですよ」
「それもありますけれど、鈴木さんはウチのエースですから」
英の説明に重田が割って入る。
十時台、四時台と二件の摘発をした鈴木は、確かに凄腕だ。
「行きましょうか」
英に促される。カメの載ったトレイは川相と重田と英に持って貰い、槌田は石のトレイを三段重ねて持つことにする。
「重くないですか?」
「いえ、それほど」とは言ったものの、十センチほどの石十五個は結構な重さだった。一番ブースの横の検査室でよかったと槌田は思う。ここからならばCIQ棟までは二十メートルもない。十七番ブースの横だったら、かなり大変だった。
自動ドアの前まで来て、「了解しました。──第一取調室です」と無線を受けた重田が伝える。