◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第1話 Welcome to Japan〈後編〉

◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第1話 Welcome to Japan〈後編〉

空港の税関ブースでは、旅具検査官が渡航客の荷物に目を光らせていた。

 

 法務省の入国管理局、農林水産省の動物検疫所、植物防疫所の三つの関係部署の職員に挨拶を終えたときには十一時半を回っていた。

「あとは槌田さんの本籍ですね。しまった、先に回れば良かったな」

 東京国際空港は警視庁第二方面所属の東京空港警察署が管轄している。国内線ターミナルの先、モノレールの羽田空港第2ビル駅そばに本署があり、国内線の第一ターミナル、第二ターミナル、国際線ターミナルのそれぞれに交番が所在する。

 だが英が挨拶に向かおうと言っているのは、本署や交番ではない。国際線ターミナル内にある警視庁の組織犯罪対策部の分室だ。

 覚醒剤の密輸犯人を税関が摘発し、身柄を拘束しても、それは私人逮捕でしかない。警察に引き渡して初めて正式な逮捕になる。税関が担うのは税に関する法律違反なのだ。覚醒剤の密輸ならば、個人での犯罪の可能性は薄い。複数の人間が関わるもの、正確に言えば組織絡みの場合がほとんどだ。当然、逮捕者から組織の大本までたどる捜査を行う。時として捜査の手は、区内や都内のみならず、全国まで広げなくてはならない。

 空港での逮捕者から派生する捜査のすべてを一つの署で担うのはさすがに無理がある。よって国際港湾は警視庁が管轄していて、即時対応のために分室が設けられている。組織犯罪対策部の分室なのは、持ち込まれるのが薬物や銃器などが多いからだ。

 分室に配属される者には共通点がある。人当たりが優しく、さらに見た目も十人並み以上だ。国を挙げて観光立国を目指しているのに、空港内に目つきの鋭い厳つい男がうろうろしていては、元も子もない。加えて空港で働いているのは男性よりも圧倒的に女性が多い。恙なく職務を進めるためには、彼女らと上手くやっていく能力も必要だ。警察官で見た目を求められるのは皇宮警察とカラーガードの二つと言われているが、実は国際港湾分室も同じだ。

「ああ、そこはあとででいいですよ」

 分室に所属している者は、面識こそない者もいるが、警察学校で同期だった大石(おおいし)がいることもあり、名前だけならばほぼ全員知っていた。

「そうですか。では少し早いですが、混み合う前に昼食にしますか?」

 英の提案に槌田は「ええ」と同意する。

 空港内には各種の飲食店がテナントとして入っている。国際線ターミナル内には訪日客に楽しんで貰うために有名店が多いのは、テレビのニュースやバラエティ番組でよく取りあげられるので槌田も知っている。そのどこかに入るのか、あるいは店のテイクアウトを買うのだろうか。とはいえ、どれも千円は軽く超えるだろう。空港内に勤務する公務員の数は多い。採用区分ごとに給与は違うが、自分の給与を考えるに、毎食それだけ掛かっていてはかなり苦しいだろう。

「仕事の話もしたいので、今日は職員食堂に行きませんか?」

「あるんですか?」

「ええ、CIQ棟の一階にあります。ああでも、本関内に入っているのと同じ会社が運営しているんですよ。せっかくですし、やはり他の店にしますか?」

 本関の食堂はすでに五日間利用した。メインと副菜、汁物とライスがついた日替わり定食が五百円だし、最高値でも八百円以下とリーズナブルで、味もそこそこなのは知っている。空港での研修は数日のみだ。終わればまた本関勤務になる。ならばと食指が動きかけたが思い止まった。一般人ばかりの店内で、仕事の話をするのはやはりはばかられる。

「いや、職員食堂にしましょう」と答える。

「それでは」と先導する英の後に槌田は続いた。

 食堂に着き食券を買い、配膳口に向かう。本関の食堂と何も変わらないと思っていたが、間違いだった。配膳口にはスーツケースを携えた一般客が何人も列んでいたのだ。

「ここって、一般開放もしているんですか?」

「ええ、していますよ。本関もしてますし」

 平然と英が答える。確かに本関の食堂も、一般客の利用が可能にはなっている。けれど本関の所在地は江東区青海(あおみ)で、ある意味陸の孤島のような場所なだけに、利用するのはほぼ職員だ。一般客の数は明らかに少ない。

「警視庁は、ああそうか。安全性の問題がありますものね」

 訊ね終える前に、自分なりに英は答えを出した。

「いえ、一応はしていますよ」

 省庁の職員食堂は基本的に一般開放されている。どこも身分証明書を提示すれば食堂の利用は可能だ。農林水産省の職員食堂は素材も味も良いので人気がある。警視庁にも一階に五百席を有する食堂があるが、周辺に飲食店がないこともあり、利用客のほとんどは警察職員だ。

「遠くからわざわざ食べに来る人もいますが」

 警視庁の刑事が主人公のドラマのファンだ。

「食堂側も便乗したというのか悪ノリして、かけそばにもう一品を選んで組み合わせるセットを相棒セットと名付けて。今でもありますよ」

 驚いたらしく、英が目を丸くする。

「けしからん、で却下されそうなイメージがあるだけに、意外です」

 順番が来て、トレイの上に差し出された日替わり定食を載せる。今日はトマトソースのチキンカツだ。空いた席を見つけて着席するまで一旦会話が途切れた。食べ始めて少ししてから、槌田はさきほどの話題を再開する。

「さっきの続きですが。警察が厳しいのは犯罪に対してだけですよ。それどころか、実は組織として一番心が広いのは警察だと俺は思ってますけどね」

 御飯茶碗を手にした英が、明らかに首を傾げる。

「これだけドラマや映画や小説や漫画で好き勝手に描かれて、文句一つ言っていないんですから」

 悪徳警官をはじめ、飛び級した美少女警視やママチャリ刑事まで、エンターテインメント界での警察は何でもありだ。だが組織としてクレームを付けることはない。

 警察は刑事法を遵守する。だから組織のみならず個人にも、厳しいとか真面目などのイメージがついて回る。職務中はともかく、勤務時間外、場合によっては定年後完全に職から離れても、そう見続ける者も多い。けれど職から離れたら皆、一人の人間だ。固定観念の色眼鏡で見続けられては、煩わしいことこのうえない。

「すみません、思い込みが過ぎました」

 槌田が言わんとしたことに気づいた英が丁寧に頭を下げて謝罪した。上げた顔は神妙な面持ちだ。

「いや、別にそんな」

 面倒臭いことになったと気づいた槌田はすぐに話題を逸らす。

「税関も似たようなものじゃないですか?」

 さきほど旅具通関部門を見たばかりなだけに、槌田はそう思っていた。人を観察し、罪を暴き、法の下に取り締まる。警察と似たような職務に従事しているのだ。ならば税関職員も警察官と同じようなイメージを持たれているに違いない。英からの返事はない。食べているのだろうと気にせず、槌田も食事を続ける。口の中のチキンカツを飲み込み、味噌汁のお椀を手に取ったとき、英の声が聞こえる。

「イメージを持たれるほど知られていない。それが最大の問題なんですよ」

 暗く沈んだ声だった。見ると、英は寂しそうな表情で遠くを見つめている。

「税務署と区別が付いていない人が圧倒的に多くて」

 英の方からスマートフォンの振動音が聞こえる。

「すみません」と断ってから取り出した英が画面を見て、重ねて「すみません」と告げ、会釈しながら席を立つ。残された槌田は食べ続けながら、英の言ったことを思い返す。

 税関も税務署も大本は財務省で、ともに国民から税金を徴収する機関だ。その最大の違いは、税関が違法な物を国内に持ち込ませないという危機管理も担っていることだ。

 そんなに知られていないのだろうか? と考え始めた頭の中で「えー、じゃぁ、空港でボディチェックとかするの?」と結実(ゆみ)の声が甦る。

 税関への出向を告げた際の結実の第一声だ。東京国際空港旅客ターミナルは日本空港ビルデング株式会社などが運営していて、空港内外の警備は同社のグループ会社が行っている。「それは民間の警備の人で税関ではないよ」と説明した。小学二年生の結実の知識が世間一般の代表だとは思っていない。けれど税関と聞いてイメージしたのが空港のセキュリティだったのは事実だ。

 そのとき槌田は根本的な間違いに気づいた。税関について多少とも知識があるのは、あくまで自分が警察官で、それも組織犯罪対策部に所属しているからだった。

 公的機関の活動の周知がいかに大切かは身を以て知っている。ことに法を遵守する機関は周知されることが違反者を減らすことに直結するからだ。

「知名度か」

 なんとはなしに呟く。離席した英はなかなか戻って来ない。英が帰ってきた頃には、完全に食べ終えていた。「すみません」と、英がまた丁寧に離席を謝罪する。この先の予想はついた。待たせては申し訳ないと英は食事を掻き込むだろう。さすがにそれは居心地が悪い。

「一時に会議室集合でいいですか?」と提案する。察したらしい英がすぐさま「ええ、ではのちほど」と同意したのを確認して、槌田はその場を後にした。

 

 午後一時からは羽田支署内での座学が行われた。東京国際空港の成り立ちや、訪日客の推移などの空港自体の基礎知識を学んだあとに、休憩を挟んで調査部検察部門統括審理官による講義が続いた。密輸事案の実例を元に、実際に職務内容を教えて貰う。規制薬物や銃器やコピー商品についてはすでに知識があることもあり、眠気が槌田を襲う。

 午後四時半を過ぎ、槌田がトイレから会議室に戻ろうとしていると、事務室に動きがあった。機動案件の出動依頼はそれまでも何度もあった。その度に当番の数名が出て行き、ほぼ十分も経たずに戻ってきた。どれも脱税とコピー商品の初犯で税関ブースエリアで終わり、CIQ棟内にある取調室に連れて来るような事件性はなかった。

 だが今回は様子が違う。何名もの検査官が立ち上がり、イヤフォンを押さえて報告に聞き入っている。

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日明 恩(たちもり・めぐみ)

神奈川県生まれ。日本女子大学卒業。2002年『それでも、警官は微笑う』で第25回メフィスト賞を受賞しデビュー。他の著書に『そして、警官は奔る』『埋み火  Fire’s Out』『ギフト』『ロード&ゴー』『優しい水』『ゆえに、警官は見護る』など。

酒なしでは生きられない。文学作品の中の「酔っぱらい」たち
師いわく 〜不惑・一之輔の「話だけは聴きます」<第54回> 『ふたりの彼に対して、罪悪感でいっぱいです』