芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第7回】小説には流行がある
芥川賞作家・三田誠広が、小説の書き方をわかりやすく実践講義!連載第7回目は、黒田夏子『abさんご』について。難解ながらも、日本語の限界に挑戦し、芥川賞を受賞した同作について考察します。
【今回の作品】
黒田夏子 『abさんご』 日本語の限界に挑んだ著者75歳のデビュー作
日本語の限界に挑んだ著者75歳のデビュー作、黒田夏子『abさんご』について
今回は絵の話から始めましょう。ヨーロッパの絵画の歴史を見ると、流行みたいなものがあることがわかります。
イエスやマリアを描いていた暗い宗教画から、明るいギリシャ神話を素材とするようになり、やがて宮廷スナップになり、農民や庶民や踊子などを描き、人物を描くのをやめて風景画が流行し、花や果物やお皿などを描き、やがて夢の中を描いたような超現実的な絵画が現れ、ついには物の形が失われて抽象画と呼ばれるわけのわからない絵画が生まれました。
小説にも流行があります。大昔は神話の時代でした。それから白い馬にまたがった王子さまや白雪姫みたいなお姫さまが登場するファンタジーが流行しました。近代化が起こって農村から都市に人の流れが生じると、慣れない都市でどんなふうに人は生きていけばいいのかということで、リアリズムで都市の生活を描いた作品が主流になります。
20世紀になると超現実的な小説が登場し、やがて抽象画のようなストーリーのない小説が流行するようになります。これはフランスで生じた流行なので、フランス語でヌーボーロマン(新しい小説)と呼ばれました。
でも小説による抽象画の流行は、長くは続きませんでした。絵だとどれほど難解な絵画でも、変な絵だなとか、わけがわかんねえ、と思いながらも、ただ眺めていればいいのですが、小説の場合は文字を読んでいかないといけないので疲れてしまいます。おもしろいストーリーがあればどんどん読んでいけるのですが、意味不明な難解なものだと読む意欲が失せてしまいます。というわけで、ヌーボーロマンの流行はすぐに終わってしまったのです。
一つひとつの言葉に疑いを持つ
そう思っていたら、突然、75歳の日本の女性が、『早稲田文学』というマイナー文芸誌の新人賞でデビューしました。その年齢にも驚かされたのですが、内容の抽象性も衝撃的でした。
意味不明のタイトル(中身を読んでも理解不能です)、全篇横書きという新しいスタイル、そしてストーリーも何もない難解さ。どれをとってもわけのわからないもので、まあ、『早稲田文学』だから賞をとれたのだろうなと思っていたら、何とそのまま芥川賞までとってしまったのですね。
話題となったのは、世間に流通している言葉の一つひとつに疑いをはさむような、厳密で繊細で、そして自分だけは違うのだよという、ある意味で高慢な姿勢です。
たとえば「蚊帳(かや)」というものがありますね。若い人は知らないでしょうが、エアコンなどもなく、アルミサッシの網戸もない時代、蚊の侵入を防ぐために、部屋の中に網でできたバリアーを吊って、その中に布団をしいて寝たものです。それが蚊帳ですね。ある程度の年齢の人なら誰もが知っている言葉です。でも作者の黒田夏子さんは、「蚊帳」という言葉を信じていないのです。それでわざと蚊帳という言葉を使わずに、こんな言い方をします。
「へやの中のへやのような檻。」
こんな言い方をされると余計にわけがわからなくなってしまうのですが、全篇にわたってこんなふうに、手あかにまみれた既成の言葉を用いずに、オリジナルな表現を用い続けることに、作者の心意気みたいなものが示されているのです。
「天からふるものをしのぐ道具。」
これ、何かわかりますか。そうです。傘ですね。謎々を解いていくような楽しみがあります。はまってしまうと、楽しく読めるのかもしれません。でも、読んでも意味不明な表現も多く、読み進むにつれて、だんだん疲れてしまいます。
いま、ヌーボーロマンを書く意味とは
話の内容は、どうやら私小説ともエッセーともつかないもので、子どものころのことや、若いころのことが書いてあるようなのですが、それも年代順に書かれるのではなく、わざと断片の前後を入れ替えて、時間軸に沿って話が展開しないように配列されています。つまり、作者は明らかに、わざとわかりにくく書いているのですね。
第24回早稲田文学新人賞は、最も難解な評論家として定評のある蓮實重彦さんが一人で選考したので、この作品の受賞にはまったく疑問の余地がなかった(蓮實さんならこれを絶賛するだろうと納得できた)のですが、芥川賞の選考委員はどういう気持ちでこの作品を選んだのでしょうか。
たとえばピカソの絵を前にして、この絵のどこがいいのか、などと疑問を呈すれば皆に馬鹿にされてしまう。それでとりあえず、わかったふりをして褒めておく。そんな感じだったのではないでしょうか。まちがっていたら、ごめんなさい。
これから小説の書き方を勉強しようという若い人には、参考にならないかもしれません。いま黒田さんの真似をしても、すぐに真似だとわかってしまいますからね。
でも、黒田さんは75歳での受賞です。いま15歳のあなたが、黒田さんの小説の難解さに感動して、ずっと真似をし続けていれば、60年後、誰もがヌーボーロマンのことなど忘れてしまったころに、芥川賞受賞ということも、ありえないことではないと思います。
初出:P+D MAGAZINE(2016/11/10)