夏川草介の新刊『始まりの木』 第1話まるごとためし読み!
第一話 寄り道
九月の弘前は、いまだ夏の名残りを濃厚に残していた。
時候はすでに秋の入り口だというのに、照りつける日差しはまるっきり真夏のそれで、駅のホームに光と影の濃厚な陰影を刻みつけていた。
「もっと涼しい町だって思ってたのに……」
特急『つがる』から弘前駅のホームに降り立った藤崎千佳は、額の上に白い腕をかざし、北国の空を眩しげに見上げた。
九月半ばの、しかも平日の昼過ぎであるから、ホームの人影はそれほど多くはない。スーツ姿のサラリーマンやひとり旅といった様子の若者が、なんとなく静かにコンコースへ向かっていく。彼らの多くもいまだ夏の装いで、ロングシャツの千佳の方が、季節はずれに見えるくらいだ。
リュックサックを背負ったまま、小型のスーツケースをホームにおろし、ジーンズのポケットから出したハンカチを首筋に当てたところで、千佳は我に返って慌てて辺りを見回した。
すぐに彼女が視線を止めたのは、ステッキを突きながら真っ直ぐに階段へ向かう痩せた男の背中である。豊かな頭髪にはところどころに白いものが混じり、よれよれのジャケットから伸びた右手には傷だらけのステッキを握っている。その後ろ姿だけでも独特の存在感があるが、こつりこつりとステッキを突くたびに大きく肩が上下して、左足を引きずり気味に歩いていくその姿は、衆人の目を引くこと疑いない。
千佳は、軽く安堵の息を吐き、それから右手をあげて、よく通る声を張り上げた。
「先生、待ってください!」
ステッキを止めて振り返った男は、手を振る千佳に冷ややかな一瞥を投げかけると、これ見よがしにひとつため息をついてから、再び背を向けて歩き出した。
藤崎千佳は、東京都心にある国立東々大学の学生である。
学生といっても、今年の四月から大学院に進学したから、学生生活そのものは五年目に突入している。所属は文学部で、専攻は民俗学。二十代の女性が選ぶにしては、それなりに珍しい分野であろう。華やかなイメージとはほど遠いし、不景気の世の中では就職に有利とも言えない。
実際、大学卒業後の進路について母親に話したときは、あまり物事に動じない母も目を丸くしたものだった。どうして、と問う母や友人には、「なんとなく」としか答えなかった千佳だが、彼女なりの理由はあった。
それも二つ。
わざわざ口に出して説明をしないのは、もともとがあっけらかんとした性格の彼女にしては、ずいぶん情緒的な理由であると、自分でも思うからだ。
一つ目の理由は、高校生のころに読んだ柳田國男の『遠野物語』に感動したから。
元来、たいした読書好きでもない千佳が、そんな文学書を手に取ったきっかけは、いつも立ち読みしていたファッション系の雑誌が「特集 遠野物語」と銘打った記事を載せていたことによる。ファッションと『遠野物語』にどういうつながりがあったのかは覚えていないが、掲載されていた最初の部分を読んで、自分でも意外なほど自然にその不思議な世界に惹きこまれてしまった。
「遠野郷は今の陸中上閉伊郡の西の半分、山々にて取り囲まれたる平地なり」
最初の一文がそれだ。
いまでも千佳は暗唱できる。古風な文体に難しい字がたくさん並んで、けして読みやすいわけではないのに、なぜだかふいに山々に囲まれた一村の風景が浮かび上がった。
日の光も通さないほど鬱蒼と茂る森、木々の影を縫うように駆けて行く数頭の鹿と、倒木に腰をおろして猟銃に弾を込める老人。森を抜けた先には茅で葺いた民家が点在し、古老の屋敷の傍らには子供数人が手をつないでも抱えきれないほどの巨木が天を覆うように佇立している。
東京生まれの千佳は、そういった景色に親しみがあるわけではない。けれども、なにか忘れていた記憶を呼び覚まされるような不思議な感覚であった。千佳はすぐに雑誌の隣に積まれていた文庫本を手に取って、そのまま作中の物語に、あっというまに夢中になってしまったのである。
柳田國男が日本を代表する民俗学者であり、『遠野物語』がその代表的著作のひとつと知ったのは、あとのことだったが、彼女の心に濃厚なインパクトを残し、やがて今の場所に導く大きな道しるべとなったのは確かだ。
しかし、千佳が民俗学を選んだのには、もうひとつ大きな理由がある……。
「藤崎、なにを腑抜けた顔をしている」
ふいに届いた鋭い声は、階段のなかばで振り返った男のものであった。
「子供ではあるまい。初めて降りた駅だからといって、ぼんやり突っ立っていないで、早く来たまえ」
頼りない痩身から、容赦のない叱咤が飛び出してくる。
その厳しい語調に、傍らのエスカレーターを昇っていく通行人の方が、怪訝そうな顔を向けてくるほどだ。しかし男は、他人の注目などまったく意に介さず、すぐにステッキを突きながら、一段一段と階段を登り始める。
階段下まで追いかけてきた千佳は、先を行く男を見上げて声を張り上げた。
「先生、待ってください。リュックだけじゃなくて、先生のスーツケースだってあるんですよ。そんな簡単に階段なんて……」
「無駄口はやめたまえ。青森まで来て、わざわざ女権論争をやるつもりはない」
「女権論争……?」
「女の自分には荷物が重いから、男の私に持てとでも言うのかね。しかし残念ながら、私はステッキがなければ一人で歩くこともままならない甚だ非力な身体障碍者だ。女と障碍者、どちらが社会的弱者であるかを論じるのは君の自由だが、私はその議論に付き合うつもりはない」
屁理屈なのか、言いがかりか、ただの悪態なのか暴言か、何にしてもひどい言葉の数々だ。近くの通行人は露骨に眉をひそめたり、目をそらしたりしているが、しかし言われた方の千佳は黙って額に手を当てるだけである。この人物の、ほとんど病的なまでの偏屈さはいつものことなのである。実際、暴言の数々は別として、彼は階段の手すりとステッキとを交互に用いて、かろうじて登っていく状態だからスーツケースなど持てるはずもない。
「そんなに大変なら、目の前のエスカレーターを使えばいいのに」とは千佳も言わない。
なぜかこの人物はエスカレーターが大嫌いなのである。
昔から左足が悪く杖生活を送っているのに、どんなに長い階段でも絶対に自分の足で登っていく。おまけに自分だけなら良いものを、学生の千佳がエスカレーターに乗ることまでひどく嫌がるから、まったく迷惑な話だ。
「しかし講義室では無口な君が、外に出たとたん切れ者の女権論者とは驚いた。それだけの覇気があるならスーツケースのひとつくらい、なんとかしたまえ。私は上で待っている」
ステッキの音とともに勝手な言い草が降ってくる。
しばし呆れ顔で階段を見上げていた千佳は、やがて軽く肩をすくめると、さっさとエスカレーターに乗って、男を追い越して行った。
「師が地道に足を使って歩いているというのに、弟子は平然と機械に頼るとはいい度胸だな」
階段の上で待っていた千佳を、息を切らせて登ってきた男がじろりと一睨みする。彫りの深い顔、異様にするどい眼光に、愛想のかけらもない口調、子供が見たら三秒も待たずに泣きだすに違いない。
千佳はしかし、わざとらしくジーンズの埃をはたきながら、悠然と応じる。
「先生の指示に従ったまでです」
「私の指示?」
「スーツケースくらいなんとかしたまえって言ったのは、先生です。だから、とりあえずスーツケースはなんとかしました。ご希望とあらば、私だけ降りて階段を登ってきましょうか?」
千佳のすました顔を、男はもう一睨みしてから、軽く舌打ちした。
「行くぞ」