夏川草介の新刊『始まりの木』 第1話まるごとためし読み!

 肩から少しずり落ちかけたジャケットを片手で引き上げ、再びステッキを進めて歩き出した。

 痩せた背中が独特の調子で上下しつつ、改札へと向かっていく。その背を視線で追い掛けた千佳が軽く目を見張ったのは、行く先に巨大な武者絵の組ねぷたを見たからだ。駅のコンコースに飾られているのは、顔の大きさだけで千佳の身長くらいはある巨大な組み物である。弘前の夏の風物詩については、千佳も写真で見たことはあるが、実物の迫力に触れるのは初めてだ。

 怒り顔の巨大な武者が、かっと口を開いている正面へ、痩身の男がステッキ片手にこつりこつりと歩いていく。その姿は、まるで鬼退治へ出掛ける一寸法師を思わせて、千佳は思わずくすりと笑みをこぼした。

 いかに偏屈であっても、千佳はこの変人学者が嫌いではなかった。

 より正確には、この男とあちこち旅をするのを気に入っていた。

 彼が、学会でも高名な民俗学者だから、というのは理由ではない。変わり者であっても、院生には確実に修士を与える有能な准教授だ、というのも主たる理由ではない。

 彼にくっついて、日本中を旅することが、いつも新鮮な発見と驚きを千佳にもたらしてくれるのだ。

 千佳が民俗学の道に進もうと決めたもうひとつの理由が、この不思議な学者の存在だったのである。

 もちろん、そんなことは誰にも話したことはない。

 この偏屈な民俗学者、古屋神寺郎にも、である。

 弘前駅を出た古屋と千佳は、そのまま駅前から大通りを歩きだした。

 バスやタクシーの行きかう道を十分ほど行くとやがて脇の小道へ入り、あとは静かな街中へと入っていく。

 日差しは強く、少し歩くだけで汗ばむ陽気の中、古屋は汗ひとつかかず黙ってステッキを動かしている。路地を抜け、裏通りを過ぎ、用水路を渡り、ちょっとした大通りを横切っていくうちに、辺りはいつのまにか閑静な住宅街だ。

 古屋はふいに立ち止まって、スマートフォンで地図を確認することがあるが、それもつかの間で、迷う様子も見せずに進んでいく。

 あとを追う千佳は、細かな目的地を知らない。

 古屋がろくに行先も告げずに歩き回るのはいつものことで、以前はそれでも、

「どこに向かっているんですか?」

 などと問うたこともあったのだが、本人の気が向かなければまともな返事が返ってくることはない。

 やがてアスファルトの車道が石畳になり、両側には石塀や築地塀で仕切られた古めかしい日本家屋が並ぶようになってきた。空が不思議に広く感じられるのは、高層の建物がほとんどないからだが、それでいて両側の家のひとつひとつは、けしてこぢんまりとしたものではない。堂々たる入り母屋造りの豪壮な日本家屋が軒を連ねている。

「綺麗な町並みですね」

 思わず千佳がつぶやけば、先を行く古屋がステッキを石畳に突きながら、

「歴史のある地区だからな。古い建物が多く残っている」

 淡々と応じる声に、ステッキの音がリズムを刻むように重なる。

 立ち並ぶ家のすべてが日本建築というわけではない。けれどもところどころに見える洋風の新築まで閑静な町並みに溶け込むように馴染んでいて、違和感がない。人通りも少なく、車も今は見えない。軒下の日陰に立って、通りに水を打つ老人の姿は、古い襖絵から抜け出してきたかのようだ。

「ここは弘前城の北側で、城の防御の要を成す一帯だ」

 ふいに古屋が口を開いた。

「ゆえに由緒ある武家屋敷が立ち並び、町割りも碁盤目になっている。なかには景観を維持するために移築されてきたものもあるが、いずれも古格を保った見事な屋敷が多い。弘前が北の小京都と呼ばれる所以だろう。東北といえば、古来中央政府から遠く外れた僻地と思われがちだが、そうではない一面がここにはある」

「そうではない一面?」

「東北の、特に日本海側は、古くは奈良、平安の時代から海運が発達して、大規模な商業都市として栄えていたという学説がある。中でも十三湊から弘前に至る津軽地方一帯は、上方との交易で豊かな富を築いていたとな。実際弘前は、戦国期にすでに巨大な城下町を形成していたし、室町期の『十三往来』には・夷船京船群集し・などと記されているくらいだ。海運という視点から見れば、津軽一帯は僻地どころか交通の要衝だったと言えるかもしれない」

 古屋はときどきこんな風に唐突に語り始めることがある。

 語る声は、毒を吐くときのとげとげしいものではなく、低く重い悠揚たる響きがある。大学の広々とした階段教室で講義をしているときの声だ。

「不思議ですね。書物の中に出てくる東北地方って、なんだか飢饉の多い貧しい農村地帯ってイメージがありましたけど……」

「農村地帯ならむしろ飢饉には強いはずではないか?」

 古屋が静かな口調でそんな問いを投げてくる。

「飢饉のたびに大勢の餓死者が出たということは、この一帯が農村ではなく、都市化していたという傍証と言ってよい。食糧の不足は、生産者たる農民ではなく、非生産者である都市住民をまず直撃する。戦時中も、食糧の欠乏に苦しんだのは、都市部であって農村ではない。地方に疎開した人々は、少なくとも都市の住人よりは、多くの食糧を手にしていたのだからな」

 新鮮な考察であった。

 新鮮なだけでなく、論理的な内容であった。

 寡黙な古屋は普段、研究室で多くを語らない。こういった旅先の方がふいに語りだすことがある。古屋の唐突な個人講義を聴けることは、旅についていく院生の特権だと、ひそかに千佳は思っている。

「あそこだ」

 古屋が告げて足を止めた。

 通りの先に、ひときわ大きな門が見えた。両側に長々と四つ目垣を従えた立派な冠木門である。その門の下に小さな白い軽自動車が止まっており、ちょうど車の横に立っていた男性がこちらに気付いて大きく手を振った。

「古屋先生、お疲れ様です」

 静かな町並みに明るい声が響く。

 そのまま駆けるように歩み寄ってきた男性は、古びたスーツ姿に紺の中折れ帽をかぶった五十年配の痩せた人物だ。

「ずいぶん早いじゃないですか。待ち合わせの時間まではまだだいぶありますよ」

「ご多忙の相馬さんを待たせるわけにはいきませんから」

 古屋の応答に、「またそんなことを言って」と男性が笑いながら中折れ帽を取った。

 帽子の下から出てきたのは、遠目の印象とはずいぶん異なる朗らかな笑顔だ。よく日に焼けた肌とあいまって、どこか少年のような雰囲気さえある。

「やっぱり歩いてこられたんですね。いつでも駅まで迎えに行くと申し上げたのに……」

「心配は無用です。私にとっては歩くことが仕事です」

「そうでしたね。それが古屋先生のやり方でした」

 にこやかに笑った男性は、千佳に目を向けて丁寧に頭を下げた。

 慌てて礼を返して名を名乗れば、男性は内ポケットから名刺を差し出しながら、

「古屋先生から聞いていますよ。今回は研究室の学生さんを連れていくとね。遠路、お疲れ様です」

 千佳が受け取った名刺には、『青森県文化財研究センター 考古学主任 相馬惣七』と書かれている。

「考古学?」

「専門は縄文時代です。青森にはそこらじゅうに縄文期の遺跡がありますから、大学だけでなく県にも研究部門があるんです。私はそこの古株です」

 古株といっても単なる管理職ではないだろう。よく日に焼けた様子は、野外で活発な活動をしている証拠だということくらいは、千佳にもわかる。

「縄文期の遺跡って、三内丸山遺跡とかってことですか?」

「もちろんあそこは代表格ですが、ほかにも亀ヶ岡や二ツ森や大森勝山や……」

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