「推してけ! 推してけ!」第19回 ◆『夏が破れる』(新庄 耕・著)

「推してけ! 推してけ!」第19回 ◆『夏が破れる』(新庄 耕・著)

評者=橘 玲 
(作家)

「いやな感じ」に魅せられて


 冒頭のバンコクの場面から、新庄作品に独特の「いやな感じ」が漂ってくる。

 今回の主人公・進は三十代半ばの厚生労働省の官僚で、タイの日本大使館に赴任している。

 タイは中進国に経済成長したが、依然、少年・少女の売買春などのトラフィッキング(人身取引)が国際問題になっている。その被害者を支援するプロジェクトに日本政府が技術支援し、発足を記念する式典が行なわれることになった。

 近年、タニヤ地区は金融街として大きく発展しているが、日本人向けのクラブやカラオケが集まる風俗街としても知られている。そのタニヤの老舗ホテルで開かれるイベントに、進は日本政府を代表して出席するのだ。

 性的搾取を批判する英語のスピーチを無難にこなした進は、帰り際に、日本人の若者に声をかけられた。このプロジェクトに加わるJICA関係者で、「途上国における未成年の人身売買や未成年者婚の問題に深くかかわる」ために国連職員を目指しているのだという。

 その青年と応対している途中、ロビーの向こうのカフェから欧米人の家族がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。四十代の両親に連れられた十代の少女は、「黒いシャツの下の胸はまださほど膨らんでおらず」「青みがかった灰色の瞳であどけなく喜笑する表情には、経年による皺や皮膚の緩みは一切ない」。

 その少女が、踊るようにステップを踏んで一回転したとき、進の全身はにわかに熱を帯び、心臓がはげしく胸を叩くのを感じた──。

 新庄耕にはタイを舞台にした『サーラレーオ』という作品があり、主人公は日本人観光客などにドラッグを売って生計を立てている「サーラレーオ(最低最悪の奴)」だった。こんどはエリート官僚が「微笑みの国」で堕ちていくのかと思ったら、場面は進の中学生時代の凄惨ないじめ体験から、沖縄の小さな島での「離島留学」へと展開する。本書では、この離島で中学三年生の進が体験した、ひと夏の異常な出来事が乾いたタッチで描かれていく。

 そこでなにが行なわれていたのかはネタバレになってしまうので書けないが、この物語を読みながら思い浮かべていたのが、「新感覚ホラー」と話題になった二〇一九年の映画『ミッドサマー』だ。

 この作品では、精神を病んだ妹が両親を道連れに無理心中してしまったというトラウマを抱えた女子大生が、ボーイフレンドに誘われて、スウェーデンの辺境にあるコミューンを訪れる。今年はそこで、九〇年に一度の「夏至祭」が行なわれるのだという。

 最初は、美しい自然や親切な村人たちに魅了されていた学生たちだが、徐々に、このコミューンでなにか異様なことが起きていることに気づく。

 この映画がホラーファンに高く評価されたのは、よくあるこけおどしではなく、観客の神経を逆なでするような描写で「いやな感じ」を演出しているからだ。

 学生たちがコミューンに向けてドライブする場面では、天地が逆になったまま風景が流れ、それが九〇度反転して元に戻る。映画館で上映されたときは、このシーンだけで気持ち悪くなり、席を立つ観客がいたという。

 新庄版の「ホラー小説」でも、おどろおどろしい描写は出てこないが、全編にわたって生理的に不快な緊張感が満ちている。だがその一方で、これは異世界に放り込まれた(ブタの世話までさせられるのだ)少年の成長物語としても読むことができる。

『ミッドサマー』では、カルト・コミューンで極限状況を体験した主人公は、最後に家族のトラウマを乗り越えて満面の笑みを浮かべる。本書では、「地獄」から帰還した進は、もはやいじめの標的ではなく、その狂気によって、逆にいじめの主犯である生徒を怯えさせる。

 そんな進が長じて官僚となり、タイに赴任するのだから、読者はそこにある種の希望を感じるかもしれない。だがそんな期待は、冒頭のバンコクの場面で封じられている。

 ロビーで白人の少女を見かけた進は、たまらず近くのトイレに駆け込んで、マスターベーションしようとする。だがそのとき、あの夏の記憶がよみがえってくる。

 進は中学三年生のとき島で「呪い」をかけられ、その後の人生にはどこにも出口はない。

 うまいなあ。

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夏が破れる

『夏が破れる』
著/新庄 耕


橘 玲(たちばな・あきら)
1959年生まれ。作家。2002年国際金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。金融・人生設計に関する著書も多い。『言ってはいけない 残酷すぎる真実』で新書大賞2017受賞。近著に『無理ゲー社会』ほか多数。

〈「STORY BOX」2022年6月号掲載予定〉

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