「推してけ! 推してけ!」第31回 ◆『完全なる白銀』(岩井圭也・著)

「推してけ! 推してけ!」第31回 ◆『完全なる白銀』(岩井圭也・著)

評者=北上次郎 
(文芸評論家)

ディテールが支える迫力の山岳小説


 すごいな岩井圭也。今度は山岳小説ときた。

 岩井圭也作品の幅の広さにいまさら驚いていてはいけないが、まさか山岳小説を書くとは思ってもいなかった。しかもそれが、読み始めたらやめられず、緊張感とともに一気読みする傑作とくるから脱帽だ。

 このところの岩井圭也の勢いは、とにかくすごいのである。特に2022年の岩井圭也は爆発するかのように大活躍だった。22年1月に水銀を呑む一族を描く伝奇小説『竜血の山』を上梓したかと思うと、22年4月『生者のポエトリー』をすぐに刊行。これは詩をモチーフにした作品集だが、言葉をうまく発することの出来ない青年が、突如舞台にあがって詩を披露することになる「テレパスくそくらえ」がよかった。この『竜血の山』と『生者のポエトリー』というまったくジャンルの異なる作品を、同じ作者が描くところがすごい。

 そしてそれにとどまらないのだ。22年7月には元科捜研のエース土門誠が、不可解な謎を科学的に解明する事件簿『最後の鑑定人』を刊行し、22年9月には少年審判において未成年を弁護する人を「付添人」と呼ぶようだが、その付添弁護士を主人公にした連作集『付き添うひと』を上梓するのだ。岩井圭也は、第9回野性時代フロンティア文学賞を受賞した『永遠についての証明』で18年8月にデビューした作家だが、そのデビューから4年間で6作しか書いてこなかった作者が、22年は一年間で4作も上梓したのだから、八面六臂の大活躍といっていい。

 デビューからの4年間にはもちろん、20年3月刊の『文身』や、21年6月刊の『水よ踊れ』など、強い印象を残している作品があり、そういう作品の積み重ねが、2022年の怒濤の快進撃に直結したということだろう。ということで、今回の『完全なる白銀』である。前置きが長くてすみません。

 主人公は、藤谷緑里。彼女が1年ぶりにアンカレッジにやってくるところから本書は始まる。フリーのカメラマンである緑里は三十五歳。これまで2冊の写真集を出しているが、いずれも初版どまり。写真家としての作家活動は続けていきたいが、現在の主な収入源は広告用の撮影である。

 今回、緑里がアラスカにやってきたのは、デナリに登るためだ。標高六一九〇メートルの北米最高峰。かつてはマッキンリーとも称されていたが、現在は正式名称としてデナリと呼ばれている。北アメリカの頂点である。

 彼女のパートナーはシーラ。この二人がなぜデナリに登ろうとしているのかは回想で語られる。その中心にいるのは、リタ・ウルラクだ。

 シーラと同じサウニケの出身。サウニケは先住民のイヌピアットたちが居住する北極海に面した小さな島で、地球温暖化の影響で一九九〇年代後半以降、海岸の浸食が始まり、沿岸部では家屋の倒壊が始まっている。

 リタ・ウルラクは、その故郷サウニケに注目を集めるために、天賦の才をいかして冬山を次々に制覇。史上最高の女性登山家と呼ばれている。いや、呼ばれていた。女性としては世界初の冬季単独登頂をはたしたあとに行方不明になっているから、正確にはそう言ったほうがいい。

 問題は、そのリタ・ウルラクを「冬の女王」ではなく、「詐称の女王」と呼ぶ山岳ジャーナリストが現れたこと。リタ・ウルラクはデナリに登頂などしていないと批判する。シーラと緑里がデナリに向かうのは、リタ・ウルラクの冬季単独登頂を証明するためなのである。ここまでで35ページ。紹介するのはここまでだ。

 緑里が本格的に写真家を志したエピソードがいいので、最後にそれを紹介したい。雪に埋もれた自宅近所の家を撮ったなかにその写真はあった。家を撮ったはずなのにピントがずれ、窓の内側が鮮明に写っている。半分閉じられたカーテンの向こうから、五歳くらいの男の子が空を見上げてる。初めて目にする本格的な降雪に、驚きと興奮と、わずかな恐れが滲んでいた──印象深いエピソードで、こういうさりげないディテールが本書を支えていることに留意。後半の登山シーンの迫力は半端ないが(山岳小説を読む愉しさの一つは、こういうリアリティに触れることにある)、それも細部が素晴らしいからにほかならない。

 ストーリーや設定が先にあるわけではない。先にあるのは、作者が世界をどう描くかという視線なのだ。岩井圭也の傑作だ。

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完全なる白銀

『完全なる白銀』
著/岩井圭也


北上次郎(きたがみ・じろう)
1946年東京都生まれ。76年、椎名誠を編集長に「本の雑誌」を創刊。『冒険小説論─近代ヒーロー像100年の変遷』『日本ハードボイルド全集』など編著書多数。

北上次郎氏は二〇二三年一月に逝去されました。氏の長きにわたる文芸評論活動に敬意を表するとともに、心よりご冥福をお祈りいたします。

〈「STORY BOX」2023年3月号掲載〉

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