岩井圭也『完全なる白銀』

岩井圭也『完全なる白銀』

「冬のデナリを登る人」


「女性と登山」という組み合わせを着想した原点は、おそらく母と妻にある。

 母は若い時分、日本アルプスの山小屋に住み込みで働いていたらしい。しかしながら、息子である私には登山の経験がない。登山の楽しみはどこにあるのかと問うと、母は「なんでやろなぁ」と毎度とぼけていたが、その顔は昔を懐かしむようであり、また妙に嬉しそうでもあった。

 二十代で出会った妻もまた、登山経験者だった。妻も「山登りはしんどい」と言いながら、地図の読み方や飯盒炊爨の思い出を語る顔はやはり充実している。

 彼女たちが人生の一時期を過ごした「山」とは、いったいどういう場所なのか? そこにはいったい何が潜んでいるのか? いつからか、私は登山家について少しずつ調べはじめていた。

 日本人登山家の歴史で避けて通れないのが、世界で初めて五大陸最高峰への登頂を果たした植村直己である。植村は四十三歳の時に冬季デナリ(マッキンリー)の単独登頂を史上初めて成し遂げ、その帰路で消息を絶った。

 この事実を知った時、北米大陸の最高峰であるデナリという山、とりわけ冬のデナリに強い興味を抱いた。エベレストやK2といった世界最高峰の山々に比べると標高は劣るが、冬の登攀難度は極めて高いという。

 調べていくと、冬のデナリと日本人との間にいくつかの縁があることがわかってきた。たとえば、人類が初めて冬のデナリ登頂を果たしたのは一九六七年だが、その登山隊には西前四郎という日本人が参加していた(西前自身は山頂には到達していない)。また、冬のデナリ単独登頂を成し遂げたのはこれまで植村を含めて五人しかいないが、そのなかにもう一人の日本人、栗秋正寿がいることもわかった。

 西前の著書『冬のデナリ』(福音館書店)や栗秋の著書『山の旅人 冬季アラスカ単独行』(閑人堂)を読み、雪嵐や極低温の凄絶さ、静謐な世界を味わった私は、ぜひこの世界を描きたいと思った。実は担当編集者にはもともと別のプロットを渡していたのだが、差し替えをお願いし、一から作り直した。

 主人公を女性としたことに、母と妻の影響があったことは間違いない。加えて、今まで冬のデナリ単独登頂を成し遂げた全員が男性であるという事実から、社会で苦闘する女性たちの姿が脳裏に浮かび、物語の主軸が定まった。

『完全なる白銀』は、特殊な登山家たちの物語ではない。冬山という舞台で繰り広げられる、人と人との「対話」を描いた小説だ。本作を通じて、一人でも多くの人に極限状態での「対話」を味わってもらえれば幸いである。

 


岩井圭也(いわい・けいや)
1987年生まれ。大阪府出身。北海道大学大学院農学院修了。2018年『永遠についての証明』で第9回野性時代フロンティア文学賞を受賞し作家デビュー。著書に『文身』『水よ踊れ』『生者のポエトリー』『最後の鑑定人』『付き添うひと』などがある。

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