西川美和「深海の船」第4回 そのとき3歳

終戦直後の東京を舞台に孤児となった少女の姿を描く映画『わたしの知らない子どもたち』。「STORY BOX」では、西川美和監督がその制作過程での思いなどを綴るノンフィクション・ノベル「深海の船」を連載中です。このたび映画公開を記念し、過去の作品を再掲することになりました。ぜひお読みください。
そのとき3歳
「先生、映画をお作りになるんですか。映画だなんて、思ってもみませんでしたからね。すこし前に、大学の研究者の先生方にわたしたちのことを本にしていただいて、それだけでも感激しましたけども、わたしも子どもの頃に自分が孤児だってことは言わなかったですし、世間でもあんまり取り沙汰されてなかったですからね。戦後でみんな自分のことで手一杯で、そこまで他人を思いやるってこともありませんでしたので、言われてみればわたし自身も孤児なんですが……いえ、『孤児』って言葉も使われてませんでしたよね。『みなしご』かな、その頃は。親戚に引き取られたのも、家族としてじゃなく、お手伝いとしてですし、使用人と使用する人、という関係で成り立っていまして、孤児という認識は誰にもなかったと思います。こちらは『食べさせてもらうために』、相手は『食べさせてやってる』という感覚で、その家に入れられた限りはもう働くのが当たり前だと思って始まったんですよ。でも、小学校か中学校かで、授業の一環で映画館に引率されて行ったことがあるんです。その時に観たのが『原爆の子』『ひめゆりの塔』『長崎の鐘』などの映画だったんですけどね、どれもすごく印象に残ってるんです。それでもって初めて空襲とか戦争の悲惨さを知ったんです。それまで身内から『お前は戦争でどうのこうの』だなんて説明も全くなかったですし、親が空襲で死んだんだってことも、6歳頃に何気ない言葉で気がついただけなんです。だから学校で映画に連れて行ってもらわなかったら、戦争のことにもわたしは気づかされずに──なんせ3歳で生き別れて、親の顔さえ記憶にない人生なんですよ。だから映画との出会いっていうのは、わたしにとっては大きいんです。大学の先生から、『こういう監督さんが戦争孤児を取り扱う映画の企画をなさってるようなんだけども、取材を引き受けられますか』って先生のことをご紹介されて、ありがたいですよ、ってお引き受けしたんです」
──吉田さん、もうお話が始まってしまいましたけど、録音させていただいても良いですか。
「はい、はい、なんども謝りますけど、ごめんなさい。お見せするはずだった写真を全部主人の車の後ろの席に置き忘れてきちゃったんですよ。もしあれだったら後でお送りします。参考にしていただけるんでしたら」
2021年の春。戦争孤児として名前と顔とを公表し、自らの体験を語ってくれる数少ない証言者である吉田由美子さんに会うために、私は東京駅からバスに乗り、茨城県鹿嶋市のホテルの喫茶室に出向いた。その喫茶室は、吉田さんが自身の孤児体験を取材者に語って聞かせる時によく利用する場所らしいのだが、自宅からはやや距離があるようだった。
「わたし自慢じゃないですけど、こういうこと一度もなかったんです。だけどいつも車を置かせてもらってるスーパーがなくなって、取り壊してたんですよ。それでがっくりしまして、こんなうっかりを。先生、ほんとにごめんなさいね。中にゴルフ用品のお店なんかもあったから、主人はわたしを待ってる間、そこで油を売れたはずだったのに、家に戻るしかなくって、写真も載っけて帰っちゃったんです。いけない、と思って、わたし車を追っかけたんですよ。追っかけたって、運転手は前だけ見て行くんだから気づくわけないのに、ばかですよね……先生、コーヒーどうぞ上がってくださいませんか。これくらいしかできませんけど、先生、どうぞ、ミルク──」
吉田さんは、私のことを「先生」と呼んだ。映画監督のことを「先生」と呼ぶのは、1950年代以前のスタジオ全盛期の俳優たちの慣習で、教養も技術も、富も社会的地位も兼ね備えていた当時の監督は「先生」という呼称に怯まなかったのだろうが、いつからか映画の監督などというものは何の後ろ盾もない、いかがわしい職業となり果てた。そんな呼ばれ方を誰かに聞かれたら笑われるから、普通に苗字に「さん」づけで呼んでください、と吉田さんには伝えるのだが、呼び方は変わらなかった。夫が車で持ち帰ってしまった写真は、私が事前に頼んだものではなかったが、吉田さんはそれを忘れてきたことをいたたまれなくなるほど頭を下げて詫びられ、また、こちらが頼んで受けてもらった取材にも拘わらず、コーヒーでいいですか、お昼は召し上がりましたか、ケーキはどうですかと、あれこれしきりに気を配られた。
──吉田さんは東京大空襲の時、3歳でいらしたんですね。大学の先生方がおまとめになった資料などを拝読すると、昭和16年6月29日にお生まれになって、大空襲が昭和20年3月10日ですから4歳になる前。幼稚園に行く前ですね。
「当時は三年保育ではないので、わたし、もちろん幼稚園にも行っておりません。当時は本所区業平橋といいましたが、今は墨田区業平、ちょうど東京スカイツリーが立っているあたりが住んでたところです。父は精工舎に勤めていたそうです。『セイコーウオッチ株式会社』という会社が今もありますけれども、そうです、あの時計のセイコーさんです。錦糸町の駅前の、錦糸公園の隣に工場がありました。今の地下鉄の半蔵門線に乗り降りできるところに。背の高いマンションが建って、あの辺も様子が変わりました」
これほど正確な情報があるのは、3歳当時の吉田さんの記憶ではなく、成人して随分年月が経ってから、父や母と暮らした街を訪ねてたどったからだという。
「わたしね、一人で探したんです。精工舎に問い合わせて事情を話しましたら、会社の方が『錦糸町の工場は今ちょうど壊してるところで、まだ間に合うからすぐに行ってみなさい』と言って連れて行ってくださったんです。もともとは時計などを作る平和産業だったんですが、精密機械を扱っているものですから、戦争中に鉄砲などの部品を作る軍需工場へ変わっていったそうなんですね。建物は前方・後方に二棟あって、前方は陸軍の武器を担当し、後方は海軍の武器を担当するようになって、父はその海軍の方の責任ある立場にあったそうなんです。父は新潟の田舎で漁師の息子として生まれて、貧乏でしたから非常に苦学をして当時の専門学校を卒業して、精工舎に入ったそうです。父の母親も、『息子は勉強をして、偉くなってくれた』って盛んに親戚に自慢していたと後から聞きましたから、父は頑張った人なんじゃないかなあ、って思うんですよ」
──でも、お父さんが精工舎に勤められていたということも、後からお知りになった。
「そうです。誰にも何も知らされませんでしたから。55歳をすぎて、子育ても終わって少し時間にゆとりもできたので、今までわからなかった父や母のことを自分なりに調べてみようと思って、人を訪ねては、『ここへ行きなさい』『そこへ行きなさい』と言われながらたどり着いたんです。錦糸町の精工舎の建物は取り壊し途中でしたけれど、立ち会ってくださった建設会社の方が、そういう理由で訪ねてこられたのなら、今掘ったところに器具が出てきたから、お父様が使われたものではないかもしれませんけれど、あなたにもらっていただいた方が良いんじゃないかと言って、くださったんです。ちょうど雨が降っていたんですけど、建物の跡から出てきた石と一緒に、綺麗に洗ってタオルで拭いてくださって」
──器具というのは、どんなものですか。
「ペンチなんです。ちっちゃな。時計のどこにどういうふうに使ったのかはわかりませんけれども。古くて、鉄ですから錆び付いたりしていますけど。行方不明のままで、遺骨も何もありませんから、いただいた石と一緒に父の形見みたいにして飾っております。今日も、行ってくるね、と言葉をかけて出て参りました」
──セイコーは今も世界一流の時計メーカーですもんね。
「ええ、前の東京オリンピックの時も精工舎が担当していました。令和3年のオリンピックも協力されるんですか? と会社の方に尋ねたら、世界のオメガに取られてしまいました、と言われていて、ああ悔しいわ、って。そんなことも電話で教えてくださいました。ほんとにたくさんの方に良くしていただいて、いろんなことがわかってきたんです」
──お父さんは、工場でなんのお仕事をされていたのかわかりましたか。職人さんとは違うんですよね?
「三揃の背広にネクタイをして、ハンチング帽を被った写真が残っています。まだ30歳ですし、そんな熟練した立場ではなかったと思いますが、職人というより、指示役のようなことをした会社員だったと思います。後から昔父と同僚だったという方がわかって、そんなことも教えてくださいました。戦争が激しくなってからは工場の中も憲兵が仕切り始めて、非常にピリピリした空気になって、まるで戦場のようだったそうです。同僚同士で私語も交わすことができなくて、トイレの中まで憲兵がついてきたそうなんですよ。軍関係のものは秘密が多くて、情報が漏れないようにしたんでしょうね。その方も、わたしがお会いしてから3年後に亡くなったんですが、亡くなる3日くらい前にお電話をいただいて、『これからも、お父さんの分まで、元気で生きてお行きなさい』とおっしゃいました。その、『お行きなさい』って江戸弁がいかにも東京の言い方で、わたしは3歳で、父の声も喋り方も記憶にないんですけど、まるで父から言われたような感じがして、とっても嬉しかったのを覚えています。……あ、主人、来ました!」
吉田さんは一度帰宅した夫に連絡をして、写真を届けに戻らせていた。きちんとしたブレザーを着た、身綺麗で柔和そうなご夫君は、私へのお土産と写真や絵などを置いて、会釈をして帰られた。
「あーよかった。先生、干し芋とかお好きですかね。田舎だから気の利いたものがないんだけど、この辺の、ちょっと珍しい、丸干しのものなんですよ。先生に渡したくてわざわざ注文したものだったんで、わたしも忘れて悔しかったのよ。お口に合えばいいですけど」
吉田さんは、私一人では食べきれないほどの黄金色の干し芋を渡してくれ、そしてすっかり安心したようだった。
──空襲の日の話を伺ってもいいですか。空襲の日の翌日に、疎開をされるはずだったと。
「ええ、翌日というより、3月10日の朝になったら、父の実家のある新潟に行こうとしてたんです。9日の夜に父が仕事から帰ってきて、東京もいよいよ危ないかもしれない、と言ったそうなんです。軍の仕事をしていたから多少情報があったのかもしれません。それで大急ぎで疎開の準備を始めたんですけど、当時生後3ヶ月の妹がおりまして、3歳のわたしは赤ちゃん返りで親を困らせて邪魔しちゃったの。これじゃあ明日の朝までに引っ越しの準備ができないってことで、2キロ離れた今の墨田区横川あたりの母の実家に預かってもらおうと、母の妹──わたしにとっての叔母に迎えにきてもらったんです。空襲が始まったのは、10日の午前0時8分くらいですよね。母の実家に連れて行かれてから2時間半くらい経ってからだと思うんです。それで今度は、叔母がわたしをおんぶして、燃え盛る火の中を逃げてくれたんですね。おそらくその頃わたしの家族はまだ寝てはいなかったんじゃないでしょうかね。家の中をバタバタ片付けていたはずだから」
──つまり、空襲がなければ、翌朝ご両親が横川の家に吉田さんを迎えに来て、みんなで新潟へ、という計画だった。
「父は軍の仕事をしてるから、疎開できなかったと思います。家族だけ疎開させようとして荷造りをしていた。でもこうして喋っていますけど、わたし何の記憶もないんですよ。ぜんぶ後から調べてやっとわかってきたことなんです。なぜ親が死んだのに、3歳のわたしだけが生き残れたんだろう、ということについて、それまで何にもわかっていなかったんです。そもそも親が死んだということすら理解していなかった。6歳になる頃に預けられた新潟の親戚から、ある日突然『お前も親と一緒に死んでくれたらよかったんだよ。そしたらお前なんか育てずに済んだんだ』とぼやかれた時に、『ということは、わたしの親は死んだんだ』って、初めてわかったんです。言ったのは、父の姉です。衝撃を受けました。それまでは、親はどこかにいて、いつか迎えに来てくれるのだろうとなんとなく思って待っていたので。でもその言葉を父の姉から聞いて、ああ、待っててもだめなんだ、と、子供心に」
──本当のことは誰も教えてくれなかった。
「くれなかったです。ましてや母方のほうは、3歳の子には残酷だと思ったんじゃないですかね。母の実家とわたしの家とは近いからよく行き来してたんです。でも新潟の父の実家とは、当時汽車でも20時間以上かかりますし、電話もありませんし、手紙だって1週間かかりますから、兄弟姉妹といえども他人以上に疎遠だったと思うんです。わたしが生まれて、写真だけは送っていたから、存在は知ってたでしょう。だけど直に会うってことはなかったんですよね。だからむこうにしてみれば、なんの情もないんですよ」
吉田さんが夫を呼び戻してまで見せたかった写真は、両親の婚礼写真や、凝った染地の着物に包まれたお宮参りの時のものなどであった。空襲で一切合切を焼かれた吉田さんの手元にこれらの写真が残っているわけは、父方の実家に送られていたものを後から譲られたり、母方の叔母らによって、わずかな荷物と共に新潟の預け先に届けられていたからである。
着物を着た叔母らしき人と並んで写った写真の裏には、「群馬県高崎市」という地名と撮影日時、背景に写った神社の名前、そして「私の子どものように可愛かった由美子ちゃんに送る」というメッセージが書き添えられていた。新潟に預けられる前、確かに高崎市にいたことがあり、そこに写っているのが親族であること。それだけが確かな記録として手元に残っていたが、高崎に一体何があるのか、彼女らがどこでどうしているのか、なぜ縁が途切れたのかは記憶になく、また誰一人吉田さんに語って聞かせないままに時が過ぎたのである。吉田さんは子育てを終えたのち、改めて自分のルーツを辿る旅に出た。
「昭和21年2月9日って書いてあります。空襲から約1年。高崎市の『小祝神社』と書いてあるから、まずそこに訪ねて行きました。きっと読み方がわからないと思ったんでしょう。『オボリ』と、フリガナが振ってあるんです。そんなところにも叔母の細かい配慮を感じました。確かに神社はあったし、警察、市役所、みんな事情を聞いて協力してくださったんですが、高崎市内に祖父母の苗字の家は一軒もないと言われて途方に暮れました。それで今度は墨田区の区役所に行って戸籍を調べましたら、高崎にあったのは祖母の実家で、祖父の苗字に変わる前の旧姓だったことがわかったんです。幼すぎて、そんなことすらわかっていなかったわけです。でも、確かにお祖母ちゃんの家は、小祝神社の近くに見つかりました。嬉しかったです。ちゃんとあったんだ、わたしには、母方のルーツがあったんだって」
しかし、出てきた戸籍から、吉田さんは叔母がすでに鬼籍に入っていることを知る。
「戸籍がありましたよ、と区役所の方が書類を持って歩いてこられた時に、ああ、叔母さんが生きてる、って思って最高潮に嬉しくなってしまったんです。でも次に言われたのが、『亡くなられてますね。2年くらい前かなあ』と。戸籍って厳しいですよね。『死亡』って現実がはっきりと書いてあるのが目に飛び込みました。全身の力が抜けて、カウンターの下にしゃがみ込んでしまいました。叔母を捜すつもりで始めたことだったから。でも役所の方が、『戸籍を見ると、叔母さんには一人お子さんがいますよ。娘さんです。東武東上線沿線の街に住んでおられますよ』と親切に調べて教えてくださったんです。わたしの様子を見て、『相手の方も驚かれるかもしれないので、今日は会わずに、改めて出直した方がいいですよ』とも言われました。そのくらい取り乱していたんでしょうね。でも、結局気がはやって、東上線に乗って教えられたお家の前まで行ってみたんです。三階建ての、まだ新しいお家が建っているのを眺めて、母の旧姓が表札に書かれてるのも確認して──とやってたら近所の犬にひどく吠えられました。下町ですから家同士がくっついてるし、みんな出てきて、妙な顔をされました。『すいません、怪しい者じゃないんですけど、また改めて出直すことにします。おやかましいことで、犬を鳴かしてしまいました』と謝ってその日は帰りました。とにかく必死だったんです」
後日改めて、夫婦で叔母の娘宅を再訪した。すると玄関が開くなり、出てきた中年の女性は「母はほんとはこの家を由美子ちゃんに継がせたかったの」と言い放ち、夫婦を面食らわせた。
「日頃からしょっちゅうこの子はそう言われていたんだと思いました。だって、ピンポン押して、まだ一歩もお家の中に入ってないんですよ」
その娘も、叔母の実子ではなかった。吉田さんの母には、もう一人、末に弟がいた。吉田さんにも、若く背の高い叔父としてかすかに記憶されていた彼は、学徒動員で従軍してゆく。戦後、無事に復員して結婚したものの、娘が生まれて程なく病で妻を亡くし、自らも結核で亡くなってしまった。叔母は、やはり幼くして孤児となってしまったその娘を育てて、のちに養子縁組したのだという。
「叔母は生涯独身だったそうです。年老いた祖父母を支え、弟の遺した娘を食べさせるために会社勤めを続けて、立派な家まで建てたんですね。わたしにとって従妹に当たるその人もまた独身で、たった一人でその家に暮らしてました。でも従妹とはいえ初対面ですし、まずは事情を説明しなければと構えて行ったんですが、『母から由美子ちゃんのことはいっぱい聞いています』と言われました。わたしは空襲のことはほとんど覚えていませんが、確かに男の人ではなく、女の人の背中におぶわれて逃げたといううっすらとした記憶だけはあったんです。でもそれが母ならば、わたしだけが生きているはずはないし、と不思議でした。それを従妹に話したら、『いいえ由美子ちゃん、それはあなたのお母さんの妹がおぶって逃げたのよ。この子は数時間前に、姉の家から預かってきたばかりだ、だから自分が必ず無事に返さなきゃって、必死で逃げたんですって』と説明してくれました。だから空襲の夜のこと、叔母におんぶされて逃げのびたこと、その後父方の家に送られていくことに至るまで、こうして喋れるのは、全部叔母が娘に話して伝えてたからです」
叔母は、吉田さんをおぶって祖父母と共に江戸川区の小松川方面に逃げた。そうして助かった彼女らは、群馬県高崎市の祖母の実家に一時避難した。祖母の父は高崎市で宮大工を営んでおり、そこに修業に入った若い日の祖父と祖母とが結婚して、母・叔母・叔父が生まれたのである。修業して宮大工として身を立てた祖父は一家で東京の墨田区横川に移り住んでいたが、空襲で家を焼かれ、終戦後の昭和21年2月頃まで高崎の祖母方の実家で避難生活を続けていた。
祖父はやがて東京の横川に戻り、雨風を凌げるバラックを建てて家族を呼び戻した。芝居小屋の近くに宮大工の作業のできる家を借りて、一家で暮らしていたのを吉田さんはかすかに記憶している。しかし戦後の混乱と食糧難との真っ只中で、神社仏閣を建てる仕事は少ない上に、年老いてこだわりも強いがゆえに、一般の住宅を建てるような仕事も受けられなかった。叔母は30歳だったが、自ら働きに出て祖父母の生計を立てねばならなくなった。このままでは持たない。新潟の、父方の実家は漁師町だから、少なくとも食べるものに不自由はないのではないかという期待を抱き、昭和22年の夏頃、祖父たちは吉田さんを新潟へ連れていくことを決意する。
──新潟に行く前に何か話はあったんですか。
「わたしに? 何にも。新潟でも富山に近い方で、汽車で20時間くらいかかるんですけれど、わたしはその汽車の中で、叔母に一言も口をきかなかったそうです。『由美子ちゃんは非常に頭がいい子だよ。だからもう何かを感じ取っていた』と、叔母は従妹に話したみたいです。わたしは何も覚えていないのですが、叔母はその時の記憶にも、ずっと苦しんでいたそうです」
日本海が目の前に広がる漁師町に父の生家はあった。その日、父の長兄は船で漁に出ており、祖父は座って網を直していたという。背格好の似たいとこたちがたくさんおり、初めて見る海に連れ出されて、子ども同士ではしゃいで遊んでいるうちに、両家の祖父の間で、吉田さんを巡る約束が交わされていた。
「叔母は亡くなる前、『由美子ちゃんに会えるものなら会って謝りたい』といっとう最後まで言い続けたそうなんです。従妹がなぜ『会えるものなら』なんて言い方をするのと尋ねたら、こんなものがあったんだと告白したそうです」
一、今後一切、この子と会わないこと
二、手紙、電話など、一切連絡をよこさないこと
三、どんな育て方をしても、一切文句を言わないこと
「海からみんなと疲れて戻ってきた時には、お祖父ちゃんと叔母さんはいませんでした。それがもう今生の別れ。一生会うことがなかった。あれ、どこ行ったんだろう、と思いましたけど、なにせ子どもだし、大勢の子たちとわいわいやってるから、さみしさみたいなものも紛れてしまったんでしょうね。そしてそれから50年、こんな約束があったことも知らずに過ごしてきたんです。でも自分一人食べるのも精一杯の時代じゃないですか。子どももいっぱいいて。そこにみなしごを一人、押し付けて置いて帰ったわけでしょう。穏やかじゃなかったんでしょうね。だからこういう条件を吞んででも置いて行く気なのであれば、ということで父方も突きつけて、母方もやむを得ずでそれを吞み込んだんでしょう」
──新潟のお祖父様宅では、やはりお魚などの食べ物には困らなかったんですか。
「お魚もありましたけど、野菜もありました。その辺の家は、どこも畑も持ってましたから。でも、粗末な食事でしたよ。子どもを含めて家族が10人いましたから。本当に貧しい漁師町で、父が必死で勉強して、出て行くことを考えたのもわかります。だからお祖父さんも大変だったんでしょう。半年は置いてくれましたけど、その後、街のほうにある父の姉の嫁ぎ先に出されてしまうんです」
──吉田さん、いつ頃からご自身のご記憶はあるんですか。
「6歳になって、ちょうど、その漁師町の本家から出される頃ですね。強烈な記憶です。もう冬になっていて、雪が深く積もっていた日に、父の妹に連れ出されて、父の姉の嫁いだ家に連れて行かれたんですよ。わたしは、叔母さんが街にお買い物にでも連れて行ってくれるのかなと、嬉しいような気持ちでついて行きましたが、父の姉の家の玄関にわたしを置いて、外からガラス扉を閉めるや否や、だっ、と逃げ出していったんです。わたしは知らない家の玄関に置き去りにされて何が起きたのかわからなくて、慌てて扉を開けて、おばさん、おばさん、と知らない街の雪の道を追っかけるんですよ。でも、叔母は路地に姿を消していて、こっちは初めて来る街ですからひたすら大通りを叫びながら追いかけましたけど、どこにもいなくて、そのまま見失いました。どうしていいかわからなくて途方に暮れて、道で泣いていましたら、しばらくして父の姉である伯母が迎えにきて、『近所迷惑だ。いつまでも泣いてみっともない』と言って家に引きずり入れられて、今度は扉の鍵を手の届かない高いところにかけられました。新潟に連れてこられて半年経って、たくさんいる本家の子どもたちとも仲良くなって、ようやく暮らしに慣れてきた頃だったんです。子どもながらにガラスを引っ搔[か]いて泣きましたね。それでも家の中にはすぐには上げてくれず、泣くだけ泣いたら疲れてやめるだろう、と言われてました。そのうちにほんとにやめましたね。辛いけれども。そうするとやっと中に上げられて、水を汲めと言われました。でも東京は当時から水道は蛇口を撚れば水が出ましたし、高崎にいた頃もそんな経験はないんですよ。上から手で押すポンプで、力がなくて要領を得なかったのね。そうすると『水さえ汲めないのかお前は』と、まず叩かれて、それがスタートです」
父の姉の嫁ぎ先は、商家の立ち並ぶ市街地で小売業を営んでおり、やや経済的に余裕があったのと、父の姉夫婦の一人娘もすでに成人していたので、父方の家族会議で吉田さんの引き取り先に決められた。
──水汲みの他にも、お手伝いや労働のようなことはされましたか。
「朝夕のご飯の下準備。野菜を畑に植えてるので取りに行って、洗ったり、皮を剝いたり、調理の味付け以外のことですよね。それから食事の支度で、かまどの焚き付けっていうのが要るんですよ。新聞紙は当時貴重だから、海が近いので北陸線の沿線に、防風林や防雪林の杉の木がいっぱい植えられてたの。その杉っ葉が落ちたのを、焚き付けに使うために拾ってくるのね。『炭俵』といって、炭を巻いて担いで運ぶための、1メートルほどの長さの俵があるんですけど、それにいっぱいに巻けるくらい拾って来いと言われるんです。ふわふわで巻いて帰ったら𠮟られるから、一生懸命足で踏んで、ぎゅうぎゅうにしたのを背負って、家に帰って来るの。学校から帰ると、それが仕事なの。家の両隣に同級生がいて、『あそぼ』って一応迎えに来てくれるんだけど、『わたしあそべないからごめん』って言うと『なんで』って言うから、『これしなくちゃいけないから』って言うと、男の子だったもんですから、『俺らが拾ってやるよ、俵をもう一つ持ってきな』って言って、二人はわたしと遊びながら杉っ葉を入れてくれて、一緒に運んでくれて。子どもながらに見てて察してくれたんでしょうね。それはやっぱり助けられましたね」
──6歳の冬に伯母さん宅に移されて、すぐ4月からは小学校に通われたんですか。
「そう。昭和23年4月にその街の市立小学校に入学しました」
──伯父さんか伯母さんは入学式には来られましたか。
「いいえ、誰も。その頃には新潟でもランドセルが普及し始めて、男の子は黒、女の子は赤いのを買ってもらってたんです。早いですよね。わたしはその家の成人した長女さんが昔使ってた茶色いヨレヨレのランドセルを引っ張り出してきてしょわされました。女の子たちのピカピカの赤いランドセルを見て、『親が生きてたらこんなの買ってくれてたんだろうなあ』と思いましたね。入学した時、伯母さんには『お前は勉強なんか頑張ってもらわなくていいからね』と言われて、よくわからずに『はい』とだけ答えましたけれど、ちょうど入学して2ヶ月くらいした時に、伯母さん夫婦には20年ぶりの赤ちゃんが生まれたんです。それはもう、目の中に入れても痛くない存在ですよ。ますますわたしはお金や愛情をかける価値のない、厄介者になったのは間違いないと思います」
──伯母さんの家と養子縁組したわけではなかった。
「していません。ただのお手伝いのままですよね。ですからわたしの名前は、その家の苗字にはならず、父の姓のままでした。わたしのお母さんってどんな人だったの、なんて、針のむしろに置かれたみたいで、とても切り出せる雰囲気じゃなくて、こっちも遠慮しました」
──「親と一緒に死んでくれたらよかった」と言われたのはいつ頃なんでしょうね。
「それは小学校に入るちょっと前ですね。1月か2月の寒い時でした。それまではみんな、かわいそうだと思ってくれていたのか、なんとか伏せてたんでしょう。でも、ふとした拍子に出た伯母の一言で親が亡くなったことを知って、ショックでお腹を壊したことがありました。今でいうストレスですね。下痢が続いて、夜にトイレに間に合わなくて粗相をしたんです。外の雪の積もった中に、裸足で出されて水をかけられました。下着を汚したんでしょうね。ほんとの親子でも嫌なことでしょうから、愛情のない子に対して、やむを得なかったのかもしれませんけど、伯母さんは凍りついたような水をバケツに汲み出して、服を脱がせて、汚れた下半身めがけてざぶざぶ何度もかけ流したんですよね。寒さと冷たさとで、だんだん意識が朦朧となっていきました。体の震えが止まりませんし、そんなに寒いのにひどく喉が渇いてくるんです。今思えば脱水症状だと思うんですけど、当時は『お腹を壊してるなら水なんか飲むな』と言われてましたから、昼間からずっと我慢してたんです。でも最後は自分でもう伯母さんに怒られてもいい、って覚悟して、台所の水甕に溜めてあるのを柄杓ですくっていっぱい飲みました。そのお水の美味しいこともありましたけど、体が少しずつしゃんとしていったのを覚えてます。あの時気を遣って水を飲まなかったら、死んじゃってたろうなあ、と思います。それが最初の虐待でした」
──暴力は、その後も体験されましたか。
「次にひどかったのは小学校の三年生の時。わたしの描く絵に精神的な異常が出てきたんですね。先生が『由美子さんは、白っぽい絵を描くんだよね。心に力がないねえ』と言って、家庭訪問に来てくださったんです。伯母と長女が対応しましたけれども、先生が帰った後が大変でした。お前は学校で先生に何を言ってるのかと。でもわたしには心当たりがないわけです。何も言ってはいません。するといつまでも言わないで強情な子だ、とまず口をつねりあげました。そのあとで二人で交互に顔を叩いたり、頭を叩いたり、商売で使っている角材を土間から持ち出して、わたしに押し付けて倒したり、殴ったり、エスカレートしていくわけ。自分たちでも普段わたしを痛めつけてる心当たりがあるもんだから、何か学校で言いつけられたと思ったんでしょうね。なのに『言ってない』と言うもんだから癇癪を起こして、だんだんひどくなった」
日頃から言葉の暴力、『みなしごのくせに』『だからお前みたいなのを使いたくないんだよ』などの暴言は絶えなかった。手伝いの仕事も、何をやっても下手だとなじられてはやり直しを命じられた。朝、学校に行こうとする直前に掃除のやり直しを命じられ、息せき切って教室に駆け込んでくる様子などを見て、担任教師は異変に気づいていたのではないか。
「表情をなくしていきましたね。泣くことも許されませんでしたから。泣けば癇に障って、もっと痛い目にあわされるんです。だから泣くことだけはやめよう、とそれは学びましたね。でも朗らかに笑うこともない。こっちは苦労してお前を育ててるんだよ、こっちの方がよっぽど辛いんだよ、と言われますからね。そうすると表情が乏しくなりますよね。だからいつも寂しげな顔して」
小学校の担任教師がくれたという卒業写真が残っている。モノクロの集合写真の中に写る吉田さんの顔は真っ白で、目には光がなく、ほとんど何の感情も読み取れない。もうすぐ入学する中学校で着るセーラー服や詰襟の制服を着て、旧友たちが明るい表情で並んだ中、吉田さんはまだお下がりの私服を着ている。自らの存在を、限りなく消そうとしている様子が見て取れる。
「ある時ね、耳を強く叩かれて、痛くて痛くて、濡らしたタオルで耳を冷やして熱を取ってたら、長女が伯母に対して、『鼓膜でも破って、耳を聞こえなくしたら困るのは私たちなんだよ。だから今度は、叩くところは気をつけてやった方がいいわよ』と言っていたのを聞きました。なんとか痛みは取れて翌日学校に行きましたが、顔が腫れてたのか、先生がまたそれに感づいて、『よかれと思って家庭訪問をしたのに、あなたをそんなひどい目にあわせてしまって』と絶句されました。女性のお若い先生でしたよ。1時間でもいい。あなたを家に帰さないように、先生があなたを使うことを名目にすればいいから、と放課後に教室に残してくださったんです。それでわたしが勝手に黒板を消しておきましたら、わあ、綺麗にしてくれたんだねえ、ありがとうね、先生助かるよ、ってまず褒めて、感謝してくださるんですよ。わたしにしてみれば、家でやらされてることの何分の一の楽な仕事ですよ。だけど、『助かるよ、ありがとう』って言ってくださったその温かさ、褒められる嬉しさをその時初めて知りました。先生といろんな話をさせてもらう中で、『今はお父さんとお母さんを亡くして辛いでしょうけど、きっと乗り越えて行こうね、きっと報われる日がくるよ』と言われた言葉が嬉しかったです。三年生に対しては先生、大変難しいことをおっしゃったと思いますけど、でも言葉がすっと入って、今でも大事に記憶に残ってるんです。だからわたしは、もし学校というところがなくて、先生との出会いがなかったら、生きてこられなかった気がするんですよ。孤児になった方の中には、学校でいじめられたという方もおられますけど、わたしの場合はそういうことがなかったんです。小学校でも中・高でも、節目節目で先生方には力をもらって、その後を導いていただいたと思います」
──どうして伯母さんたちはそんなふうにひどい仕打ちをなさったんでしょうね。
「これも後からわかったことですけど、祖父たちの間で交わされたあの三つの約束事というのが、伯母のところには伝えられていなかったんですよ。だから伯母は、『お前の母方の連中は、自分たちにお前を押し付けておきながら、電話の一本、手紙の一本よこさない、ひどいもんだよ』ってぼやくんです。でもわたしもその約束のことはつゆ知らないわけですから。今思えば同じ父方なのに、そんな約束があったことを親戚間で伝えなかっただなんて、汚いと思いますよ。そのせいで母方の叔母はわたしのことが心配でも、連絡一つできなくて、生涯自分を責め続けて死んでいったんですもの。ある意味で、叔母が最も苦しんだ人かもしれません。もしあんな約束がなければ、そして大人たちがもう少し気持ちを開いて、両家を行き来させてくれてれば、わたしの人生ももうちょっと違うものになったんじゃないかなと思って、今でも悔しいです。だけど預かった父方の伯母も辛かったんだとは思います。わたしみたいな孤児をいくら頑張って育てたって、誰にお礼を言われるものでもないし。思うのはね、戦争当時、四六時中、身近に人の死があったじゃないですか。死が怖いものだという感覚がなかった時代ですよね。だからわたしに対しても生かさず殺さずで、病気になっても病院に連れても行かないし、それで死んでくれるならそれもよし、という感覚だったんでしょうね。構ってられないのよ。自分が生きるだけで精一杯だから。戦争っていうのはそういうもの。最大にして最悪の人災ですよね」
中学に上がると、体力もつき、畑仕事の肉体労働を命じられた。
「肥料はまだ人糞なんですよ。それを桶に入れて縄で背負って、家から2キロくらいの距離の山の畑まで持っていって、空になったらまた運んで、二往復するんです。肩に縄が食い込むんですよね。セーラー服から野良着に着替えて、ポケットに暗記するものを隠しておくんです。桶を背負って歩きながら、道中でこっそり出しては覚えて中間試験に備えました。『勉強なんか頑張らなくていい』『お前は生意気にさせたくないんだよ』って言われてましたから、そんなことが見つかったら、容赦してくれるわけないんです。わたしも中学を出たら就職するのが当たり前だと思ってましたけど、先生方が『なんとかこの子の力を伸ばさせてもらうわけにいかないですかね、ご商売もやられているし、少しは経済的な余裕もあるんじゃないですかね』と家の人に言ってくださって、わたしもびっくりしましたけど、中二の時に就職から進学へ進路が変わりました。当時はご両親が揃っていても、クラスの半分は中卒で就職する時代でした。そういう中で、わたしのような立場での進学は異例だったかも知れませんけど、先生たちがそう言ってくださったので、なんとか頑張って高校受験に合格したんですよ。掲示板を見に行きました。嬉しかったです。嬉しかったです。勉強をする時間もなかったんですよ。でも本当に必死で頑張りました。けれど、いつも、なんでも嬉しいことと辛いことが背中合わせになってるんですね──」
吉田さんの高校受験合格は、伯母たちには歓迎されなかった。
「本家の女の子たちでさえ、みんな中卒で紡績工場に就職したのに、お前みたいなみなしごが高校にまで行ってどうすると。過去に父が苦学して専門学校を出た時に、伯母が少し援助したんだそうです。父は、姉に『出世払いにさせてくださいね。後で返しますから』と言ってたらしいんですね。そのことを持ち出して、高校に受かった夜に、『お前の父親にも金を返してもらってない。なんで親子二代にまで亘って学費を出さなきゃいけないんだ』と。だけど父は30歳で、これからって時に死んでいったわけで、返したくても返せなかったんじゃないですか」
受験に合格したものの、吉田さんはすっかり絶望してしまった。学費の心配、勉強時間の確保の難しさ、伯母や長女からの終わりのない責め苦が続くことを考えると、進学したいという気持ちさえ萎んでしまった。
「正直、こんなに嫌味を言われ続けながら、学校に行ったって仕方ないという気持ちになっていきました。嫌味を言われる方が辛いのよ。それに耐えてでも、どうしても進学したい、と踏み切る力がなくなっていました。しょうがない。お金で迷惑をかけないうちに死ななきゃ。死んで両親に会いに行こう──そう思いました。近所の線路を、北陸線の貨物列車が夜中の12時に通り過ぎるのを知っていました。貨物は重いから、一瞬にして潰れて楽になれるだろうと思ったんです。夜、それに間に合うように真っ暗な農道を線路沿いに歩いて行って、線路ぎわに立ったんです。あ、来たな、今だ──と思った時に『死んじゃだめ、生きるのよ!』って女の人の声が聞こえて、頭の中にぶん殴られるような衝撃が走ったんです。そしたら通過した貨物列車の風圧で、線路沿いの土手に落ちたんですよ。今度は怖くて怖くて仕方がなくなって一目散に真っ暗闇の農道を戻って、そっと裏木戸から家に入りました。𠮟られるから声を押し殺して、朝まで布団をかぶって泣きましたね。おかげさまで一回ポッキリです。そんなふうなことを考えたのは」
──女の人の声というのは。
「わたし、母の声も叔母さんの声も知りません。誰の声だかはわかりません。でも叔母はまだその時は生きてますから、じゃあ、お母さんの声だったのかなあ、とただ思ってるだけですけどね」
高校に通っても成績は優秀で、卒業後は神奈川県平塚市のデパートに就職した。ようやく伯母の家を出て、会社の寮に暮らし始めることができた。職探しを始めた当初は隣の大磯町の、戦後創設された「エリザベス・サンダース・ホーム」という混血孤児向けの施設に勤めて自分の体験を活かしたいと書類まで取り寄せてみたが、担任の教師から、「そういう仕事もいいけれど、あなたなら違う道で生きることもできるよ。一度これまでの自分の世界から出て、外から自分を見てみなさい。施設の隣町にでも就職すれば、ボランティアでお手伝いすることもできるでしょう」と助言された。昭和30年代の終わり頃。高度経済成長期真っ只中で、女性のデパート勤務はまさに花形の職業だった。
「ああいう場所では、頑張った分だけ評価されますよね。パッと花開く感じがありました。言葉遣いや作法なんかも厳しくて、周りの女性社員は次々辞めていかれましたけど、わたし、全然平気だった。バラ色だったよ」
──お話を聞いてると、吉田さんの言葉には地方のイントネーションが全くないように聞こえますね。長く新潟で過ごされて、平塚に就職された時に、言葉を標準語に直されたのですか?
「それが、すぐにこっちの言葉に直るんです。新潟では、元の東京の言葉なんか喋ったら変な目で見られるから、完全にあちらの言葉で生活してましたけど。中学の時に、学校行事でNHKの放送に出たことがあったんですけれど、そこでも急に標準語を話して、『君だけ言葉が違うね』と驚かれたことがあります。自分でも不思議でしたけれど、もしかしたら、ずっと心のどこかで、自分は東京生まれなんだという誇りのようなものがあったのかもしれません。他にも、新潟にいた頃は旅行にもどこにも連れて行ってもらったことはないのに、なぜか古い建築や神社仏閣に興味があって、大人になってから観光地などに行っても、見ればそれが平安時代の建物だとか、仏像の顔つきが飛鳥[あすか]時代のものだとか変にわかったり、あるいは『架木(神社や寺社の手すりの最上部の横木)』だとか『蟇股(梁や桁の周辺に設置される、カエルの股のような形状の部材)』だとか、専門的な建築の言葉を知ってたり、自分でも気味が悪かったんです。でも50年後に従妹から『それは私たちのお祖父ちゃんが宮大工で、初孫のあなたをとっても可愛がってたから、いろんなところに連れ回してたのよ』と言われて初めて記憶の点が線になりました。あとは、観たこともないお芝居のセリフがツルツル口から出てきたりするんです。明治一代女の『浮いた浮いたと浜町河岸に』とか、国定忠治の『赤城の山も今宵限りか』『南の空へ雁が飛んで行かぁ』とか、清水次郎長、森の石松……映画こそ、学校で連れて行かれて観せてもらったこともありましたけど、お芝居なんてお手伝いのわたしが行けるわけがない。なんでこんなセリフ、なんでこんなことを、と不思議で仕方がなかったの。そしたらお祖父ちゃんが大の芝居好きで、住んでた横川の家の目の前に『梅森亭』っていうお芝居小屋があったから、贔屓にしてわたしをよく連れてってたって言うんですよ」
23歳で、現在の夫と結婚をした。仲を取り持ったのは、伯母の長女の友人の女性だったという。家に遊びに寄るたびに、厳しく𠮟られながら働く吉田さんの姿を見て不憫に思っていた彼女が、会社勤めの父親に相談し、穏やかで真面目な部下の男性を紹介してくれたのだという。
「結婚して、人生ががらっと変わりました。そのご友人の方がよくも親身になってお世話をしてくださったと思いますけれど、主人も優しい人ですし、またお家の人たちがみんな本当にいい人でした。特に夫の姉が、こんな人がいるのかな、っていうくらいに大事にしてくれました。わたしがどういう生い立ちかもわかった上でですよ。自分たちの兄弟と、わたしみたいなよそから入った嫁とを全然差別せずにね。遊びに行っても、おんなじものをおんなじだけお土産に用意して、平等に扱ってくれるんです。当たり前なのかもしれませんけどね、ほんとに感動しちゃうんです。そういうことを経験してないですからね」
結婚を機にデパートを退職し、千葉県市川市に進出していた夫の会社の社宅に移り住み、二人の息子を育てた。
「世間ではよく、『やられたら同じことをやり返すようになる』と言いますけども、わたしの場合は真逆なんです。息子たちのことも、あんまり過保護にしちゃいけないと思いながら、反動で大事にしすぎてしまいました。人に怒ることっていうのが、できないんです。よく息子たち同士で、お母さんは甘やかしすぎだ、って母親批判をするんですけど、絶対に自分の子どもに対して後悔するようなことはしたくない、と思っていました。ですからしばらく子ども中心の生活でしたけど、下の子が五年生になった時、近所の学校で給食の配膳係の面接に行って、採用されました。センターから運ばれてきた給食を配膳車から受け取って、それを子どもたちの教室にワゴンで運ぶ仕事です。朝10時から午後2時までの4時間勤務で定年まで20年勤めました」
──やっぱり働き者でいらっしゃいますね。
「とにかく、学校というところに恩返しをしたかったんです。離婚や事故でひとり親になった家の子とか、お祖父ちゃん・お祖母ちゃんに育てられてる子が、どんどん増えてきた時代でしたけど、そういう子の顔見ると、だいたい何かあるな、って、わかっちゃうんです。『何か辛いことあるの? おばさんも実はこんな体験して苦しんだことがあるから、嫌じゃなければ話してみて』と言ったら、『じゃあ聞いて』と言って話し出す子もいるんです。我が家まで来た子もいました。みんなそれぞれ苦しいのを乗り越えて、明るくなって、卒業して行く子たちを自分の誇りみたいに思ってました。定年で辞める時、最後に校長先生に『どんな時でも吉田さんは、子どもに優しかったよなあ』と言っていただきました。やっぱり優しさに飢えてたんでしょうね。だからその分を、自分の家庭でも──夫にだけはあんまり優しくないんですけどね」
ご夫君の話をする時の吉田さんは、本当に安心しきった様子で、表情も緩む。一方で娘ほども年下のわたしに対してもへりくだり、写真を夫の車に置き忘れてきてしまったことを繰り返し平身低頭に謝るのは、家族に甘え、わがままを言いたい盛りの年頃に、終始大人の顔色を窺い、息を殺して耐えてきたことの影響なのか、とも思ってしまう。
退職後は鹿嶋市に移り住み、畑仕事でもして悠々自適に暮らそうと考えていたが、2007年に東京大空襲の被害者らが国に補償を求めて裁判を起こしたことを知り、運動に加わることを決める。
「新潟の畑では重労働ばかりを任せられていたので、種を蒔いて、野菜を育てるってことをやってみたかったんです。田舎で農家をやって、夫はゴルフをやりながら、のんびり老後を過ごそうと思ってたのに、裁判に加わって、なおさら忙しくなってしまいました。国を相手取って補償を求めるだなんて大それたこと、考えたこともなかったんだけど、両親だって悔しかったと思うんですよ。何にもわからない歳の子を置いて、死にたくはなかったはずですよね。これまで日本は軍人・軍属やその遺族には60兆円以上の補償をしてきたそうです。それはそういう方にもなくては困るものだったと思います。だけど、あんなにたくさんの子どもが、家を焼かれていきなり道に放り出されて、それに対して、何一つ謝りもせず、手も差し伸べずにほったらかしにした国っていうのは他にないですよ」
同じ第二次大戦の敗戦国であるドイツ・イタリアは戦後、軍人・軍属と民間人とを区別せず、戦争による被害者に対して、障害年金・遺族年金、医療保障などを補償する法整備をしてきた。日中戦争以降の戦没者310万人のうち、80万人が民間人だったが、日本は民間の犠牲者に対しての補償を原則的に行なっていない。民間人空襲被害者たちによる訴訟において、国は「戦争という国の存亡をかけた非常時下では、国民は等しく被害を受忍するべき」という「受忍論」を主張し、原告側は東京地裁・東京高裁ともに敗れ、2013年に最高裁で敗訴が確定した。空襲によって孤児となった人々の救済がなされなかったのは、当時子どもだったために、自身の被害の大きさや実態を認識することもできず、団結して声を上げるまでに時間がかかったためとも言われる。最高裁判決後も、吉田さんらは超党派の議員連盟とともに、全国の存命中の空襲被害者や沖縄戦で障害の残った人への一時金支給と、実態調査や追悼を求める法案成立を目指して活動を続けているが、2025年中の国会においても自民党執行部での反発を受け、法案提出に至らなかったという。
「団体の人たちも年々亡くなっていって、活動できる人が本当に少なくなってきました。だからいつも『わたしたちにはもう時間がないんです。あきらめずにお待ちします』と議員さんたちには手紙を書くんです。あきらめてしまったら、向こうの思うつぼだと思って。わたしは当時3歳だったので、空襲被害者の団体の中では最年少なんです。わたしより小さかった子どもたちは、きっと妹のように親と運命を共にして死ぬしかなかったのだと思いますから。だから空襲被害者と言っても、わたしには空襲の記憶自体はほとんどなくて、その後の生活の証言しかできないんですけれど、『あんた一番若いんだから頑張りなさい』と年上の人たちに言われて、はい、はい、わかりました、と自分に鞭打ってやらせていただいてます。いつまで経ってもその中では下っ端ですから。夫は『のんびりしようって言ったのに、忙しくなっちゃったじゃないか』と言いながら、裁判や、学校やらに語り部で行くのも、送り迎えしてくれるの。活動の中身には口を出しませんけど、わたしのスタートのことから知ってくれてますから。だから夫が陰の協力者。アッシー君やってるの」
気がつけば取材が始まってから5時間が経っていた。スーパーのゴルフ用品店にご夫君を待たせることにならなくて良かったと思った。しかし78歳という年齢でありながら、ほぼ休憩も取らず、吉田さんは自らの半生についてぶっ通しで話し続けた。恐るべき記憶力と明瞭さで、少女時代に担任した教員たちが「就学させないのはもったいない」と息巻いたのも頷ける。吉田さんは、長年暴力や監視に支配された反動で「人に怒ることができない」と言い、謙虚さと丁寧さを行き渡らせた言葉遣いが崩れることはほぼなかったが、全てにおいて自己都合だった大人たちへの怒りは心の芯に固くこびりつき、幼少期そのものを喪失した悲しみと憤怒の念とが、代わるがわるにその小柄な体内でマグマのように爆発し続けているようにも見えた。
私は次に取り掛かる映画の題材を、空襲で孤児となった少女にすることを決めて吉田さんに会いに行ったが、吉田さんが体験したようなはげしい虐待や、取り巻いた大人たちの底なしの悪意を、そのまま実写の映画に映し出すのはひどく困難だと感じた。わずか6歳の女の子が夜中に積もった雪の上で下半身をあらわにされ、血のつながった伯母から冷水を浴びせられる映像を、誰が観たいのか。そんな残酷な光景を、私はただの聞きかじりで再現したくはないし、生きた子どもに対して演出する気力もない。かといって、事実行われたはずの子どもへの暴力を伏せて、そもそもこんな主題を最後まで描くことができるのだろうか。
わかりきっていたことだった。空襲や、戦禍に巻き込まれて親を失った子どもたちの物語が、ハッピーでライトなコメディでないことくらい。しかし、蓋を開けた事実の重さに、私の漕ぎ出した小さな船はすでに傾き始めていた。伝える意義のあるテーマであっても、人が観てくれるものにできなければ映画にする意味はない。また、吉田さんたちのような当事者が描いてほしいと望む針路に行き着くともかぎらない。素材を間違えたのかもしれない。調査や資料集めをし始めてから1年近くが経ち、すでに沖まで出てきてしまった自覚はあったが、これ以上進む前に、引き返すべきなのではないか。無念でも、今岸に戻るのが正しい選択ではないか。そんなふうにも焦りながら、かといって引き返す勇気もなく、結局、小さな櫂で少しずつ波を漕いで、針路も曖昧なまま進もうとするしかなかった。
結論から言えば、吉田さんが体験したことの具体的な出来事を、脚本内に再現することはほぼなかった。けれど一方で、これほどのオーラルヒストリーを私のメモのままに置いておくのは惜しいとも感じていた。映画のなしうることと、文章のなしうることは異なる。孤児体験のある人の語りは限られている。戦後、孤児として生きた人の多くはその過去を伏せ、配偶者や我が子にも知らせぬままであったり、あるいは人から頼まれて証言をしていても、途中から家族に止められたりする人も多かったからだ。痛ましいことに変わりはないが、文字での表現ならば最後まで読み遂げられる人も多いことを信じて、なるべく吉田さんの言葉通りに再現し、ここに紹介した。
*
[追記]
2026年2月末からの小学館「マンガワン」で連載中だった作品の原作者起用の問題を受けて、私は同社における配信プラットフォームで本稿を発表するべきかについて、深く悩みました。子どもに対する性暴力に対して、社会や司法が寛容であっていい理由が見つかりません。過去に犯罪歴のある人の社会復帰は重要な社会課題ですが、その罪状が暴力や性犯罪である場合、社会復帰の手段として公への表現や発信を選ぶことには、極めて慎重でなければならないと私は考えます。表現することでしか生きていけないという人も存在すると思いますが、その機会を奪われるということの重さそのものが、他者への暴力の代償ではないかと思います。実在する被害者に対して与えうるあらゆる加害的な影響を、当人はもとより、その発信を支える編集者・出版社は熟慮するべきであり、「マンガワン」に連載中の漫画家の皆さんが、掲載を控えられる形で抗議を示されていることには、畑違いながら賛同します。
長い休載期間をもらって久々の連載再開の一編で、掲載元は文芸編集室という異なる部署とはいえ、私は新作の映画において戦争によって孤児になった子どもたちを取り扱い、また子ども時代の大人からの暴力や遺棄を語った生存者の言葉を扱った本稿を、同社のプラットフォームに発表するべきかは悩ましく思いましたが、一方でトランプ政権とイスラエルがイランを攻撃し始めたタイミングでもあり、また今国会(2026年)の会期中に、この回を一人でも多くの人に読んでいただく意義はあると自己判断し、掲載していただくこととしました。
2026年3月6日 著者
〈「STORY BOX」2026年5月号より〉
西川美和(にしかわ・みわ)
1974年広島県生まれ。映画監督。2002年、『蛇イチゴ』で脚本・監督デビュー。主な作品に『ゆれる』『ディア・ドクター』『すばらしき世界』など。小説に『ゆれる』『永い言い訳』、エッセイに『スクリーンが待っている』『ハコウマに乗って』などの著書がある。映画『わたしの知らない子どもたち』は、第51回トロント国際映画祭のプラットフォーム部門に正式出品が決定。最新刊は同名の原案小説。
原案・脚本・監督:西川美和
10月16日(金)全国公開
©︎2026 K2 Pictures・AOI Pro.
公式サイトはこちら





