米津篤八『私のドン・キホーテ』

至福のパン屋
書籍を翻訳するときは、なるべくその現場を訪れることにしている。正確な翻訳のためでもあり、モチベーションを保つ工夫でもある。
『不便なコンビニ』(キム・ホヨン著)を訳したときは、小説の舞台である下町、青坡洞を歩いて土地勘を養った。
時間が取れないときは翻訳後に「答え合わせ」の旅をすることもある。キム・ホヨン氏の新刊『私のドン・キホーテ』はそのケースだ。
物語は、30歳で夢破れて会社を辞めた主人公のソルが、実家のある韓国中部の大田の街に帰ったところから始まる。しかし、中学生時代に入り浸っていたレンタルビデオ店はすでになく、彼女に映画の楽しさや小説『ドン・キホーテ』の素晴らしさを教えてくれた店主の〝ドンおじさん〟は失踪してしまっていた。
ソルは一つのアイデアを思い付く。ドンおじさんを探す旅を動画にしてユーチューブで配信すれば一石二鳥じゃないか。大田を振り出しに、ソウル、釜山、済州島、ついにはドン・キホーテの故郷、スペインへ──。さまざまな出会いを通じてソルの成長を描くロードムービー的小説だ。
ところで、「大田って何があるの?」という人も多いだろう。本書には「代表的観光地がパン屋という、つまらない街」とある。私自身、乗り換えで下車したことが一度あるだけだ。
どのようにつまらないのか、これはぜひ現地を訪れてみなくては。目指すは作中にも登場する創業70年の老舗ベーカリー、聖心堂だ。
ソウル駅から高速鉄道で1時間、大田駅に到着して、中央路の本店に向かう。ところが、行き交う人たちは、家族連れも、カップルも、迷彩服の軍人までもが、手に手に「聖心堂」のロゴ入り紙袋を持っているではないか。これは単なる「観光地」のレベルを超えている。そのとき、長い行列が見えた。その先頭はレンガ色の建物へと続いている。聖心堂本店だ。
熱中症予防のためか、氷嚢を頭に載せた整理員に声を掛けると、50分待ちだという。行列客のために、ご丁寧に特製の日傘が用意してあり、冷風機や給水スポットまで備わっていた。
ようやく入店。板張りの床と高い天井の店内は、客でごった返している。その間を縫って、白い制服に身を包んだ店員たちが、焼き立てのパンを次々と運んでくる。私は、本作品にも登場する粒あん入りの揚げそぼろパンとニラ玉入りのニラパンを購入して、店を脱出した。
さて、どこで食べよう。近所のカフェに入ると、聖心堂のパンは店内で食べてもかまわないという。窓際のカウンター席で、冷たいアイスコーヒーとともにパンをかじる至福の瞬間。
聖心堂が大田市民から愛されている理由がわかったような気がした。
米津篤八(よねづ・とくや)
早稲田大学政経学部卒、朝日新聞社勤務を経て、朝鮮語翻訳家。訳書に『チャングム』キム・サンホン(早川書房)、『夫・金大中とともに』李姫鎬(朝日新聞出版)、「巨人のノート 記録は人生を変える最大の武器である』キム・イッカン(かんき出版)、『韓国近代美術史:甲午改革から1950年代まで』洪善杓(共訳、東京大学出版会)、『誘拐の日』チョン・ヘヨン(ハーパーコリンズ・ジャパン)、『半分の半分の半分』チョン・ウニョン(講談社)、『不便なコンビニ』『不便なコンビニ2』キム・ホヨン(小学館)など多数。






