浅田次郎さん『わが心のジェニファー』
『壬生義士伝』や『一路』といった歴史・時代小説のみならず、『地下鉄に乗って』『鉄道員』といった現代小説においても、浅田次郎は「日本」と「日本人」の姿を描き出してきた。最新長編では未知の国を旅する米国人青年の視点を採用し、ニッポンの美しさや奥深さをあぶり出してみせる。
浅田次郎はエッセイの名手でもある。JALの機内誌にて連載中の「つばさよつばさ」では、旅する喜びと驚きをテーマにしたエッセイを書き継いできた。
「子供の頃、占い師に"あなたは一生旅する運命だ"と言われたことがあったんです。まさにその通りで、小説家になる前からね、旅行しないとやっていけない仕事にずっと就いているんですよ。四〇歳で小説家としてデビューしてから、今でも平均すると六、七回ぐらいは海外に出張しています。さらにその隙間を国内のサイン会やら講演会やら、趣味の温泉三昧で埋めているから、家にいる期間は年の三分の一ぐらいしかない。そういう自分の運命を、エッセイでは書いているんだけれども、小説ではあまり活かしてなかったんですよ。活かす作品とは何かと考えた結果が、『わが心のジェニファー』なんです」
主人公はニューヨークに暮らす内気な青年、ラリー・クラークだ。決死の覚悟で恋人のジェニファーにプロポーズをしようとした矢先、条件を提示される。「結婚には価値観の共有が必要なの」。そのために、彼女が愛する日本へ一人旅をしてきてほしいと言うのだ。「もうひとつお願い。旅先からは手紙をちょうだい」。三週間の休暇を取ったラリーは日本全国を旅しながら、「わが心のジェニファー」(ジェニファー・オン・マイ・マインド)で始まるラブレターを書き綴る──。
「ラリーは"純粋な旅人"という設定にしました。自分の感覚で旅してほしいという恋人からの命令で、携帯電話やスマホやタブレットという電子機器を、彼から奪ってしまうことにしたんです。これらの小さな箱が、いかに旅というものを小さくしたか。どこへ行ってどこに泊まってどこの店で食べるか、今は全部を機械任せにしようとするでしょう? 旅は偶然の出会いが面白いんです。その場その場で起こる偶然を掴んで進む、これこそが、今の時代に失われてしまった正しい旅の楽しみ方なんですよ」
考えることの中からオリジナリティは生まれる
日本を初めて旅する米国人ラリーの目を通すと、この国は、独特の魅力に溢れて見えるようだ。顔をぶつけてしまいそうなほどピカピカに磨き上げられたバスの窓ガラス、文房具から下着までなんでも揃う「インテリジェンス・ショップ」なコンビニエンスストア……。
「日本に来たことがある外国人たちを多く取材しました。全自動トイレの素晴らしさには、みんな驚いていましたね。それから、口を揃えて言うのは日本人の優しさです。ちょっとものを尋ねると、片言の英語で一生懸命答えようとしてくれる。無宗教の国ゆえに宗教的なタブーがほとんどないから、どんな宗教も受け入れてくれる寛容さがある。そんな日本の居心地の良さに、世界の人々が気付きつつあるようなんですよ」
成田空港から新宿へ移動した後、倹約家のラリーが一泊目に選んだのは安いビジネス・ホテルだ。「子供のころの勉強部屋だって、この部屋の三倍はあった」と最初はうそぶくが、次第にその狭さにも喜びを見いだしていく。
「スマホもパソコンもない人間であれば、あの小さな部屋の中で"この狭さはいったいなんだろう?"という疑問を、暇に任せて考え続けると思うんです。その結果、ラリー君は"これは母の胎内にあったころの安息だ"と思い至った。現代人は情報ツールを持ってしまったことによって、物を考えなくなっていると思う。どんな仕事でも、自分にしかできないオリジナルなものを生み出さなければ評価されることはありません。そのために必要なのは自分の頭で考えることだけです。なのに、いつもネットの世界に繋がって、制限された情報の中に自分を閉じ込めているのでは、みんなと同じ仕事しかできないですよ」
ラリーはその後、京都、大阪と日本全国を旅していく。本作は小学館の月刊誌『本の窓』での連載だったが、ラリーの行き先は事前にきっちりと決めておくことはせず、各回ごとのひらめきが積極的に取り入れられている。
「ラリーと一緒に僕も月に一回、行き当たりばったりの旅を楽しんでいたんです。修行僧"スパー・マン"が別府温泉のところに出現した時は、さすがに僕も驚きました。これがもし道後温泉に行っていたら、出てこなかったでしょう。別府に似合いますよね、あの男は(笑)。日本についてのシニカルな解説をする"ネガ・ガイドブック"を登場させたのも、その場のノリです。そもそもラリーは恋人が好きだと言う日本を好きになりたいという気持ちできているから、少しひいき目で日本を見ている。それだけでは味が薄いから、本からの引用という形で真逆の視点を取り入れてみたんです。あの本が実際に存在するかって? あるわけないでしょう(笑)。あったら僕も読んでみたいですが」
自分自身の回復をする
本作を執筆するにあたり、ひとつだけ、しっかりと決めていたことがある。「ラリーの自己回復」というテーマだ。
「テーマさえちゃんと考えていれば、ストーリーっていうのはおのずと出てくるものなんです」
ラリーは幼い頃に父母と離ればなれとなり、祖父母の元で育てられた。顔も覚えていない父母に対する、複雑な感情が彼の心の中にはあったのだ。
「鬱屈した人間が日本を旅する間にいろんなことを考えていって、ある解放を得る。これが今作品のテーマです。ジェニファーがラリーを旅に送り出したのは、"日本を知りなさい"ということではなく、"あなた自身の回復をしなさい"ということを望んだからなんです」
やがて辿り着いた旅の終着地点には、ラリーを解脱に導く出来事が待ち構えていた。
「スマホを捨て、運命に身を委ねて旅を続けてきたからこそ、ラリーは自分の運命と出会うことができたんだと思います。もしも僕がミステリー作家だったら、今回の"ラスト"の出来事について、もっと丁寧に書くのかもしれない。でも、その出来事を誰が画策したかよりも、その出来事を経てラリーがどうなったのかに興味がありました。僕が書きたかったのは、彼のミステリーではなく、彼の運命なんですから」
これまで数多くの小説を発表してきた浅田氏だが、本作は一生が旅途にあるという自身の運命を、書いた作品だという。
「ひとりの旅人の気持ちになって書いたので、みなさんもラリーと一緒に旅をするつもりで読んでみてください。そうすればきっと、私たちの生まれた国がどんなに素晴らしい国かって、分かりますから。だって、無料の公衆トイレで、お尻が洗える国なんですよ?(笑)」
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