櫻木みわ『アカシアの朝』

櫻木みわ『アカシアの朝』

かがやく5月に旅に出て


 生まれ育った九州の炭鉱町の近くにスーパーおいしい焼肉店があって、子どものころ家族でときどき出かけた。店の裏手にバラック小屋が並んだ区画があり、車で一瞬通り過ぎるだけなのに、いつもはっと目を惹かれた。
 橙の裸電球に照らされ、生活の気配がたちのぼっている空間に、なぜだかなつかしい気持ちと、強烈な魅力を感じた。朝鮮半島出身の人々が暮らしていた集落だった。

 大学の春休み、仲のよい従姉たちと博多港からフェリーに乗って、初めて韓国に行った。釜山の海鮮とショッピングを楽しむ、気楽な旅だった。
 帰路、タクシーで釜山港へ向かう山道で、「ナザレ園」という日本語の看板をみつけた。不思議に思って訪ねると、そこは、戦前に朝鮮半島出身の男性と結婚し、そのまま帰れずこの地に留まった日本人妻たちの養老院だった。
 日本の歌をうたってほしいといわれ、従姉たちと「赤とんぼ」をうたった。こんなんで大丈夫かな?  不安になって顔をあげたら、車椅子の女性が涙を拭っていた。

 数年が経ち、社会人になったころ、旅先の北陸の食堂で、北朝鮮の拉致問題の番組を目にした。初の日朝首脳会談があった年だった。拉致被害者のひとりである横田めぐみさんの帰還を、ご両親が訴えていた。
 中学1年生だっためぐみさんが、学校から帰ってこなかったこと。母親の早紀江さんはその日、クリームシチューを作って娘を待っていたこと。
 突如断ち切られ、まったく別の世界へと反転させられた人生の衝撃が胸に迫り、頭から離れなくなった。

 子どものころにみた集落にはとうにあたらしい建物が立ち、高齢だったナザレ園の女性たちも、ほとんどの方が亡くなっているだろう。めぐみさんの父親の滋さんは、娘の帰りを待ったまま、失意のうちに逝去された。
 時はながれ、時代はどんどん進んでいく。だが、自分の心を離れないそれらの光景は確かにあった。そしてそれは、同時代のこの世界にいまもなお、みえないかたちであり続けている。

 それらのことを書いたわけではないけれど、それらの光景があるんだ、ということを思いながら、この小説を書いた。
 練習生、アイドル、大学生、韓国北部の村に暮らす高齢者たちに、新聞記者やタクシーの運転手さんをはじめ、多様な職業の方たち。10代から80代まで、日韓のさまざまな方に、お話を聞かせていただいた。

 主人公は、ダンスが大好きな15歳。すべてのものがかがやく5月、あこがれのソウルに出発した主人公と共に、読者も未知の旅をしてくれたらうれしい。

  


櫻木みわ(さくらき・みわ)
1978年福岡県生まれ。タイ、東ティモール、フランス滞在などを経て、2018年に作品集『うつくしい繭』で単行本デビュー。著書に『コークスが燃えている』『カサンドラのティータイム』。現在は琵琶湖で唯一の有人の島、沖島に住む。

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アカシアの朝

『アカシアの朝』
著/櫻木みわ

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