堀川志野舞『ゴーイング・ゼロ』

堀川志野舞『ゴーイング・ゼロ』

デジタル社会の向かう先


 30日間、逃げきれたら賞金300万ドル――まるでバラエティ番組の企画のようだが、相手はCIAと巨大IT企業。これは犯罪者を速やかに捕らえることを目的とした実証実験なのだ。この〈ゴー・ゼロ〉βテストの参加者は10名、シングルマザーや図書館司書、退役軍人、プログラミングやセキュリティの専門家など。果たして最後まで身を隠し続けられる者はいるのだろうか?

 

 著者のアンソニー・マクカーテンは、映画『博士と彼女のセオリー』などの脚本家としてアカデミー賞にもノミネートされているが、小説家としての評価も高く、本書は2024年バリー賞のベスト・スリラー候補になっている。

 マクカーテンは人間の成功と失敗、栄光と挫折を描くのが実にうまい。本書にはテック企業のカリスマとなったサイという人物が登場するが、このキャラクターの描き方も秀逸だ。サイはある事件をきっかけに、犯罪を未然に防ぐ社会の構築に情熱を燃やしているが、それは突き詰めれば国民のあらゆる情報を政府が管理するということである。

 サイは断言する。「プライバシーの保護にいちばんこだわっているのが誰なのか教えようか。犯罪者だ。連中は身を潜めるためにプライバシーの保護を必要としている」

 これはずいぶん極端な考えだ。何も後ろ暗いところがなくても、情報漏洩に不安を抱き、日常を覗き見られることに抵抗を覚える人は多いだろう。

 ところが、サイはこうも言うのだ。「人はもうプライバシーを求めていない。皆が心から望んでいるのは、知られていないことじゃなく、知られていることだ」

 行き過ぎた承認欲求からSNSで炎上する者は後を絶たないが、「認められたい、気づいてほしい」という気持ちは、程度の差こそあれ、誰もが確かに持っているはずだ。

 では、サイの主張は本当に正しいのだろうか? プライバシーと引き換えに安全な社会を実現することは可能なのか? 結局、データを活用するのは人間であり、扱い方次第で防具にも武器にもなる。

 

 デジタル後進国と言われる日本だが、2023年時点でマイナンバーカードの保有者は9000万人を超え、キャッシュレス決済比率は39.3%となった。外出する際はスマホさえあれば事足りるほどになっている。しかし本書を読んだあとは、例えば新しいアプリをダウンロードしたとき、規約に「同意する」のボタンをすぐには押せなくなるかもしれない。

 


堀川志野舞(ほりかわ・しのぶ)
横浜市立大学国際文化学部卒。英米文学翻訳家。主な訳書に『星命体』(静山社)、『ロックダウン』(共訳、ハーパーコリンズ・ジャパン)、『愛は戦禍を駆け抜けて』(角川書店)、『アガサ・クリスティー ショートセレクション 二重の罪』(理論社)など。

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ゴーイング・ゼロ

『ゴーイング・ゼロ』
著/アンソニー・マクカーテン 訳/堀川志野舞

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