小松亜由美『イシュタムの手 法医学教授・上杉永久子』

小松亜由美『イシュタムの手 法医学教授・上杉永久子』

懐郷の解剖技官


 ドラマや映画で「法医学」の存在は浸透しつつあるものの「解剖技官」という職業はあまり知られていない。「解剖技官」は、実は正式な呼び名ではなく、法医学関係者の間で使われる俗称のようなものだ。所属する組織により差異はあるが、対外的には「技術職員」に該当する。絶対に必要という訳ではないが、臨床検査技師免許を持つ者が多い。

 解剖技官の一番重要な仕事は、解剖における法医解剖医の執刀補助だ。それでは、解剖のない日は何をしているかと言うと、解剖中に遺体から採取した血液や尿などの検体検査、病理標本(プレパラート)の作製。次の解剖に備えた、法医解剖室の清掃や消耗品管理、解剖器具を含む備品の整理・確認等である。勿論、業務はこれだけに留まらない。

 ほぼ一日を解剖室で過ごすことも多いため「表札を出して住んだらどうか」とからかわれる始末。解剖室の番人、執事のような役割を受け持つのが、解剖技官である。

 私もその解剖技官の一人で、勤務時間外に小説を書く二足の草鞋を履いている。

 長時間の解剖に入って帰宅した後、クタクタで動けない日もあるが「好きで選んだ道だろう」と自らを叱咤しパソコンに向かっている。法医学教室に勤めながら小説を書くのが長年の夢だったのだ。叶った夢は粗末にしてはならない。

 今回書き上げた『イシュタムの手 法医学教授・上杉永久子』は、法医解剖医の卵を主人公とすることで、法医学教室の日常を読者目線でお伝えできるのではないかと考えた。 

 物語の舞台に、生まれ故郷の秋田を選んだ。何の面白味もない土地に未練はないと、若い内に秋田を離れた。しかし、歳を重ねるにつれ故郷を顧みることが多くなり、生まれた場所の情景を自分の手で書き残したいという思いが日増しに強くなってきた。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」とは良く言ったもので、秋田から出なかったら見えなかったことがたくさんある。ずっと住んでいたら、この物語は生まれなかっただろう。

 東北六県の中で、秋田は一番地味な存在のような気がしてならず「誰か、どうにかして地元を盛り上げてくれないだろうか」と忸怩たる思いでいたが、ある日突然気がついた。「誰かがじゃなく、自分がやれば良いのだ」

 秋田を舞台にしたエンターテインメント作品は少ない。「北欧ミステリ」があるなら「北国ミステリ」を興せばよい――。

 懐郷の解剖技官が紡いだ法医学ミステリを、是非ともお楽しみいただきたい。

 


小松亜由美(こまつ・あゆみ)
秋田県大仙市生まれ。東北大学医療技術短期大学部衛生技術学科を卒業し、臨床検査技師免許を取得。現在は某大学医学部法医学教室に所属、解剖技官を務め、多くの異状死体の解剖に携わる。2019年、『誰そ彼の殺人』(幻冬舎)で作家デビュー。

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イシュタムの手 法医学教授・上杉永久子

『イシュタムの手 法医学教授・上杉永久子』
著/小松亜由美

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