吉川トリコ「じぶんごととする」 10. 若者言葉と中年小説家の危機
作家・吉川トリコさんが自身の座標を定めてきた、あるいはこれから定めようとするために読んだ本を紹介するエッセイです。
文庫のゲラをやっていると、数年前に書いた原稿のいたらなさ、へたっぴぶりが目に余り、羞恥に悶絶する——というのは小説家あるあるのひとつだけれど、日々めきめき音を立てるように成長し、うまくなっていると自分でもはっきり実感できていたデビュー当時ならまだしも、二十年経ったいまでもそういうことが起こるからしんどい。まだ伸びしろがあるということなのかもしれないが、自分の原稿を読んでうんざりするの、さすがにいいかげん卒業したい。この頃は言葉の賞味期限のサイクルがどんどん速まっており、流行語や若者言葉や時事ネタなんかを作中に盛り込んだりすると、文庫が出るころどころか連載を終了し単行本が出るころには目も当てられないことになっていたりする。筆のいたらなさだけでなく、なんだか古臭くもっさりとした小説に見えてしまうのだ。
六年前に刊行した『マリー・アントワネットの日記』なんかいま見るとほんとうに耐えられない。ギャルいマリー・アントワネットが現代日本のネットスラングや若者言葉を使って日記を綴るという体裁の小説なのだが、発売当初から「おばさんが無理して書いてて痛い」「ギャル語っていうか2ちゃんのオタクノリでは?」などとネットで言われていたし、当時すでに2ちゃんねるではなく5ちゃんねるになっていたことを考えると、なんかもういろんな気持ちがどっと押し寄せてきて透明になって消えてしまいたい……。ただまあ、刊行から六年がたったいまここで言い訳させてもらうと、あれはギャル語というより「ギャルなるもの」としてマリー・アントワネットを書いていて、どっちかというと古き良き少女小説のおきゃんな口語文体を意識していたのだが、「おきゃん」とかいってももう若者には通用しないだろうから、あえなく言い訳失敗である。しかし、トワ日記の担当編集(は)氏は「資料的価値を高めるために」作中に使われているスラングにていねいに注釈をつけていたので、そういう考え方もあるのだなあと目からうろこが落ちもした。
以来、すっかり開き直ったというわけでもないけれど、これはこの時代、こういう言葉が流行っており、こういうしゃべりかたをしていた人がいたのだという風俗描写としてアーカイブしておこうという意識が、あるといえばある。それがなければ、文庫化なんてはなからなしの方向でお願いしたいし、電子書籍なんてマジでかんべんしてくれだし、図書館におさめられている自著を燃やし尽くすために全国ツアーをしなくてはならなくなる。
そうした流行語や若者言葉の類を排除し、なるたけ平易な、時代を感じさせない言葉で小説を書けばいいではないか、という考え方もあるだろう。時事ネタを極力排除し、普遍性を高め、時代に関係なく長く読み継がれることを意識して書かれた現代小説。もしかしたらそちらのほうが主流かもしれないし、私にだってそうした意識で書いた小説がまったくないわけでもない。でもね。好きなのよ。そういう言葉が。時代にさらわれて消えてしまう儚いあわのような言葉の数々も、若い人たちが好んで使うジャーゴンも。
思えば、若かりしころの私は傲慢だった。流行語や若者言葉の類と自分とのあいだにまったく距離がなく、自分が使う言葉と時代の言葉がぴたりと一致していたころ。若者に合わせたしゃべりかたをするおじんやおばんを「無理めの若者言葉使っちゃって」と嘲笑し、中年になってからもいじましく若者向けの青春小説を書いている作家を、「悪いけどお呼びじゃないんで。あとはうちらにまかせときなって」と冷ややかな目で眺めていた。自分が永遠に若いと思っている傲慢な若者そのものだった。まさか自分が中年になってから、あのときの己の残酷さがすべてブーメランになって返ってくるなんて思ってもいなかった。中年になろうとなんだろうと、青春小説は書きたいんだよ!!!!
そうはいっても、若者と触れ合う機会がほとんどなく、あったとしても推しグループの若い男の子たちのSNSや動画などから推し量るぐらいで、若者の言葉も文化も流行もさっぱりわからないのが現状である。メディアがかぎられていたころは、テレビと雑誌を見とけばなんとかなったが(それでもストリートとの乖離はあった)、いまや細分化されすぎていて、どこに若者のメインカルチャーがあるのか、あるいはそんなものなどどこにもないのかすら見当もつかない。金曜日に学校に行ったら、クラスメイトのほとんどが昨晩放送されていた「ボクたちのドラマシリーズ」の話でもちきり——といった牧歌的な風景などいまはどこにも存在しないだなんて、そんな……いろんな意味で涙がでちゃう、おばんだもん。
数年前、高校生が主人公の小説(『流れる星をつかまえに』)を書いたときなどは、担当編集(こ)氏に泣きついて、高校生の子どもがいる編集部の方にお願いしていろいろとリサーチさせてもらった。若者と触れ合う機会があるとき、若者の口からふと漏れた言葉を忘れないようにその場でメモを取ることもしょっちゅうだし、最近では「いまどきの若者はなにを考えているのか」をリサーチした社会学者の本やZ世代について書かれた竹田ダニエルさんの本、それから若い作家が書いた漫画や小説を読んでおべんきょしているようなありさまである。そんな涙ぐましい努力をしたところで『みどりいせき』のような小説なんて逆立ちしたって書けないし、あーあ、やんなっちゃった、あーああ、驚いたー(引用がいちいち昭和)。
なるほど、若いころに「みずみずしい感性」とやらで青春小説や若者の恋愛を書いてきた作家が年を取るにつれ、歴史ものや評伝もの、実際の事件を題材にしたモデル小説などに移行していくのはこういうわけだったのか! と身をもって実感しているところである。いずれは私もそういうものを書く日がくるかもしれないし、書きたい気持ちもないわけではないけれど、もうちょっとだけ「現代」であがいていたい気持ちもある。じゃあどうしよう? どうしたらいいんだろう? そんなことを考えていた折に、上の世代の女性作家からの回答ともいえるような小説を二冊続けて読んだ。
一冊目は井上荒野さんの『照子と瑠衣』。中学の同級生だった照子と瑠衣、七十歳の二人を主人公にした痛快なバディノベルである。タイトルからもわかるとおりフェミニズム映画の名作『テルマ&ルイーズ』が発想源になっている。まさか『テルマ&ルイーズ』を七十歳の高齢女性でやっちゃうなんて! そうしてそれがこんなにも面白いエンタメ小説になるなんて! という興奮のままに一気読みした。
『照子と瑠衣』
井上荒野
祥伝社
この小説を読むと、女(とりわけ専業主婦)の結婚は経済活動で、離婚は経済問題なのだということがよくわかる。『テルマ&ルイーズ』も逃走劇の発端こそ性暴力だったけれど、その後はとにかく金、金、金。金の話に終始していた。女が男の手から離れ、自立して生きていくためにはとにかく金が必要なのだ。ダイヤモンドは女の子の親友だと七十年前(!)にマリリン・モンローも歌っている。
『テルマ&ルイーズ』の公開が九一年。それから三十年が経ち、ようやく日本の女性たちが「目覚め」はじめたことを考えると、『照子と瑠衣』は生まれるべくして生まれた物語だという気がする。だから、四十歳前後とおぼしきテルマとルイーズから、照子と瑠衣は三十歳年を取っているのだろう。4Kレストア版が今年の二月に公開されたのでひさしぶりに映画館で観たのだが、女性をエンパワメントするようなさまざまな映画やミュージックビデオやあれやこれやの引用元はこれだったんだ! といまさら気づいた(私もそれと気づかず孫引きしていた)。いつか、『照子と瑠衣』をとおして、『テルマ&ルイーズ』を孫引きする若い作家があらわれるかもしれない。なんと光に満ちた予感だろう。
- 1
- 2