乗代雄介〈風はどこから〉第2回
第2回
「川の間を歩きにいこう」
さだまさしの「木根川橋」は、東京都葛飾区四つ木のローカルな話題に彩られた歌だ。歌詩(こう書くことになっている)にもある木根川橋は葛飾区と墨田区を隔てる荒川に架かる橋、水道路は江戸川から取水する金町浄水場方面からの幹線水路があった道路、白髭神社はそこからちょっと入ったところにある渋江白髭神社のこと。同じく歌詩に登場するアセチレンというのは屋台にかかっていたアセチレンランプのことで、あんずあめは──さすがにわかるだろう。
こういう説明が必要な昔の歌ばかり聴いているというわけでもないのだが、私がこれをよく聴いていたのは中高生だった2000年前後で、その時でさえ1979年発表の「木根川橋」は圧倒的に昔の歌だから、やっぱり好きなのだろう。それどころか、あの頃この歌を延々聴きながら、松戸駅付近の家から木根川橋まで歩いて来たことがあった。10キロほどで今思うと大した距離ではないが、楽しくて、こんなことばっかりして暮らせたらなァと思っていた。
20年後、10月中旬の晴れの日、朝から木根川橋の最寄り駅、京成押上線四ツ木駅にやって来た。そこから歩いてエッセイ書いてお金をもらおうというのだから、夢が叶ったのだろう。
20年前は、この四ツ木駅から電車で松戸まで帰った。場所も高架の造りもあの頃と同じだが、面影はゼロである。新しく綺麗になったというのもあるが、キャプテン翼まみれになっているためだ。ホームも階段もどこもかしこもサッカー小僧たちが躍動して目がちかちかする。列車の接近を知らせるメロディも「燃えてヒーロー」だ。駅を出たところのファミリーマートの看板にもサッカーボールがめり込んでいるなど、芸が細かい。
これら全ては、キャプテン翼の作者である高橋陽一が四ツ木出身であるためだ。構内には、現在はヴィッセル神戸に所属するアンドレス・イニエスタが駅リニューアルのセレモニーに駆けつけた写真も飾られている。キャプテン翼の筋金入りの大ファンなのだ。世界的なスター選手がこんな快速も止まらない駅に来るんだから、文化というのはすごい。
四ツ木駅を出て、首都高速中央環状線をくぐって綾瀬川を渡れば、すぐに荒川左岸の堤防だ。目の前には木根川橋。橋梁は、綺麗な三角形が上下交互に並ぶワーレントラス構造である。
橋を渡らずに左岸を下っていく。右に荒川、左に綾瀬川。幅は100メートルもない。綾瀬川は途中で中川に合流し、左の川幅はさらに広くなる。そんな川の間の道が9キロほど続くのだ。川の真ん中の堤防ということで中堤と呼ばれるそうだ。堤防の種類としては背割堤というもので、一方の川が増水した際、もう一方への逆流を防ぐために設けられる。
というわけでぶらぶら歩き始めたら、いきなりアリの結婚飛行に遭遇。アリの多くは、付近の同種の巣と同じ時期に、女王になるメスとオスの羽アリを一斉に飛ばして繁殖する。この時期この時間だとサクラアリだろう。何匹か口に入ったのを吹き吐いて歩く。写真を撮ったが、小さすぎてろくに写らず残念だ。
河川敷にはいくつかの野球グラウンドが目につく。イヤホンから流れる「木根川橋」でも荒川土手でやる草野球は歌われている。そういえば、なぜさだまさしがこの地域について詳しく歌っているかというと、中1の時、ヴァイオリニストになるべく長崎から単身上京してきたからである。最初の1年は叔父と下宿していたそうだが、それからは一人暮らしだったというからすごい。通っていた葛飾区立中川中学校は、中川と綾瀬川の合流地点のそばにある。
草野球といえば、と思って松任谷由実の「まぶしい草野球」を聴いてみる。季節の変わり目の天気についての歌詞(ユーミンはこれで大丈夫)は、肌寒かったのが最高気温30度近くまで戻ったこの日にふさわしかった。昔の人──というのも失礼だが──はちょくちょくこういうことを歌ってくれて助かる。恋人の草野球を初めて観に来た人の歌で、いつ聴いても「ちょっと高いフライ」で始まるサビに感心する。「ちょーーっと」と長くのびてボールの軌道と視線の上昇が表現され、平凡な内野フライを打ち上げた時のあの感じがちゃんとよみがえる。打者は恋人だったのだろうか。ヘタっぴなりに楽しくて、みんな一喜一憂して、天気も良くて、という草野球の幸福がのどかに歌われている。
それほど景色が変わらないので、積極的に葛飾あらかわ水辺公園に入って行く。中堤の一部が、1キロ以上にわたって公園という名目になっているのだ。どうしてわざわざそんないやらしい言い方をするかというと、お世辞にも整備されているとは言い難いからである。
例えば、ヨシの茂みの中、細長い濁った池を回るような小径を行ってみる。川の方に向かってさらに小径が等間隔にいくつものびているが、川に出られると思って進んではいけない。これは全て、ホームレスたちの居住空間へのアプローチなのである。高級ヴィラが並ぶ湖畔みたいな感じだ。それと同じで、雰囲気だけ味わうのが吉である。
歩く中で、もう一つ楽しみがあった。「荒川之下流三十景」という看板である。最初に見たものには、その六「船堀之景」とあった。町ごとのマンガ絵地図なのだが、これがよくできていて、あるたびに読みふけってしまった。こういう絵地図や鳥瞰図はいつ見ても楽しい。子供の頃から「旅の絵本」とか「いろいろないちにち」とかが好きだったし、今も村松昭の「日本の川」シリーズの刊行を楽しみにしている。
この絵地図による出会いがあったのは、中堤の南の端まで辿り着いたところだった。道はどこにもつながらず、中堤から出るには葛西橋まで来た道を1キロほど戻らないといけないのだが、ここに三十景のうちの一つが立っている。遠目からでもそれとわかって楽しみに向かったが、私より年配の女性──匿名希望さんが腕組みして見ているので少し待った。ハンドルカバーのついた自転車がそばにある。私は、川べりのアオサギにじわじわ接近を試みるなどして時間をつぶしたが、まだ見ている。アオサギも5メートルで飛んだし、人間もそういうものかと思って近づいてみると、匿名希望さんが私に気付いた。動かないし、目も離さない。足を止めることもできず私が看板の前に立つと、挨拶なしで会話が始まった。
「コレすごいね。おもしろいね」「ここに来るまでもいくつかありましたよ」「あ、ほんと? どこに?」「どこって途中途中に。三十景ってあるから30個あるみたいで、ここのは二之景ですね」「えー! ここが一じゃないの?」「もうちょっと河口に一つ目があるんじゃないですかね」「えー、他のも見たい。だってコレおもしろい、すごくッ」「荒川下流っていうぐらいだから、かなり広い範囲にあるんじゃないですか」「おもしろいッ、見たいッ」
という感じがけっこう長いこと続き、つい「写真撮ったので、見ますか」と言ったら「えー見たいッ」というお答え。カメラで確認すると十と六と四があった。一つ表示して渡すと、小さな画面で拡大したのを上下左右に動かしながら、黙ってじっと見ている。よかったよかったと思いながら川を振り返ると、水面がきらきら輝いていた。
5分ほど経った。嘘だろと思っていると、匿名希望さんは顔を上げた。「おもしろいッ。次のは?」と問われ、二つ目。また川を眺め、サイクリストたちが何人かやって来るのを見る。みんな、ちらりとこちらを見上げて引き返していく。今度は時計を見ていたので間違いないが、6分経った。「次のは?」一瞬、もう無いですという言葉が頭をよぎったが、たかだか数分もうかったから何になるのか。時間はいくらでもあるじゃないか。「これで最後です」と渡してからきっかり5分、相手は顔を上げて「おもしろいッ」と言ってカメラを返してきた。「ありがとッ」
とはいえ、こちらも何か見返りがほしくなり、私は素性を明かして「あなたのことをエッセイに書いてもいいですか」と訊いた。別に何を書いてもかまわないが「匿名希望でお願いします」とのことだ。「大丈夫、名前は出しません。教えなくていいですし」と言ったら変な顔をするので最初はわからなかったが、よくよく聞いたら、匿名を希望するということではなく、そのまま「匿名希望さん」と書いてほしいらしい。「ラジオとかであるじゃん?」と言っていた。「だからもう最初に匿名希望さんって書いてもらって」と細かな指示を色々もらった。だからその通りに書いている。
そんな感じでかれこれ30分ぐらい話していたが、「そのエッセイ、写真も載せるんですけど、川越しの自転車とか撮ってもいいですか」と言った途端、匿名希望さんは食い気味に「それはムリッ」と顔の前で手をぶんぶん振った。そして、逃げるように自転車で走り去ってしまった。
私は、匿名希望さんがまっすぐ遠ざかっていくのを見ていた。その上を貫く首都高速中央環状線を中心に、左右の川と雲のかすんだ青空が渦を巻くようだった。どこかサイケデリックな気分と少しの罪悪感で、姿が見えなくなるまで立っていた。匿名希望さんは一度も振り向かなかった。
安直にビートルズの「Lucy In The Sky With Diamonds」を聴きながら、葛西橋まで戻った。そこからは風景を楽しむとかいう気持ちはあんまりなく、三十景の看板を見逃さぬよう目を皿にしていた。対岸に渡って少し河口へと下り、運良く「その一」を見つけた。そのまま川を遡って「その五」も見つけた。そこで気付いたが、私が見た全ての看板にふなっしーのシールが貼ってあった。
木根川橋を渡って四ツ木駅へ戻ったが、この日から私は、ちょくちょく荒川へ繰り出している。匿名希望さんにいつ再会してもいいよう、三十景をカメラに収めておくためだ。
写真/著者本人
乗代雄介(のりしろ・ゆうすけ)
1986年北海道生まれ。2015年「十七八より」で第58回群像新人文学賞を受賞しデビュー。18年『本物の読書家』で第40回野間文芸新人賞を受賞。21年『旅する練習』で第34回三島由紀夫賞を受賞。ほか著書に『最高の任務』『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』『パパイヤ・ママイヤ』などがある。
〈「STORY BOX」2023年4月号掲載〉