「妄想ふりかけお話ごはん」平井まさあき(男性ブランコ)第16回
16.「ハット紳士」
最近、信号に嫌われている気がする。信号を渡る時、すごく高い頻度で赤になる。それも、赤になりたてほやほやのフルの赤だ。歩いていて、先の信号を目視した時、その時は青でも、自分が近づいていくとちょうどいいタイミングで点滅の末、赤になる。そしてフルの赤を喰らわせられる。これはもちろん、ちょうど青になってスムーズに渡っている時はさほど印象に残っていないから、赤の時に止まったという記憶が濃く残っているから、高い頻度で赤と遭遇すると思ってしまっているのではないかという可能性もある。いや、それでもなお、僕は確実に信号に嫌われているのである。
前に一度、歩行者信号の赤の中にいるハットを被った紳士と話したことがある。「何を酔狂なことを」と言わないでもらいたい。事実として、僕はあのハット紳士と話したのだから仕方ないだろう。ぜひ、その掲げたバタフライナイフの切先を下ろして欲しい。そして持ち歩かないで欲しい。
それは先週の土曜日のこと、僕はこれから行きつけにしたいと思っている下北沢にある老舗の喫茶店のカウンターに座っていた。行きつけになる記念すべき初回である。僕はノートを広げ何かを書いている風に何かを書きながら、いい香りのコーヒーを味わっていた。ちなみに僕はこういう風なことをするのが好きなので、誰が見ているわけでもないのに、こういう書生風なことをやってしまう。そんな風をまっとうするために、何かわけのわからない言葉の群れを書き連ねていた。その時、カランコロンキリンキリンと首長動物が2頭出てきそうなベルが鳴った。
そこに入ってきたのが目下の信号在住ハット紳士だった。ハット紳士なんてこの世界にはごまんといるだろうと思うだろうが、このハット紳士は紛れもない信号の中にいるハット紳士なのだ。根拠は、この後のハット紳士と僕のやり取りを聞いていただければ、どんなにいけずな読者にも納得していただけるだろう。
ハット紳士は僕の隣に座り、マスターに「ブレンドひとつ」と渋い声で注文した。マスターも負けない渋い声で「あい」と答えた。マスターがコポコポするコーヒー作成装置のようなものでブレンドコーヒーを作り始めた。
僕の中には、この男こそ、信号の中のハット紳士であるという確信があったので、ドギドギマギマギ、ドギーマン&マギーマンになりながら、勇気を振り絞ってハット紳士に話しかけてみた。
僕「あの、すみません」
紳士「なんだね」
これでまず紳士というのは確定。話しかけて応答の一言目が「なんだね」は絶対に紳士。
僕「突然話しかけてすみません。つかぬことを伺うのですが」
紳士「ほう」
一度確定した紳士が再度確定。相槌で「ほう」は紳士確定だ。さらに店内にもかかわらず未だハットも被っているからハット紳士である。そして核心へ。
僕「あなた、あの信号の中のハット紳士さんですよね」
僕はこの紳士の紳士たる風格に負けぬように渋い声で問うてみた。するとハット紳士は、
紳士「当たり前ではないか」
いかがだろう。いけずな読者さん、ハット紳士のこの「当たり前ではないか」。
この言葉には「なぜ私のことを知らぬのだ。私がいるからお前たちは安全に道路を渡れているのだぞ。それをわざわざ確認するようなことをして、失敬にも程があるぞ。無礼者め」という含意がある。そう、この紳士が信号在住のハット紳士であるという根拠は、本人が「当たり前ではないか」と言ったからである。これにはみなさん、脱帽のことだろう。
それから、僕はハット紳士とたくさんのおしゃべりをさせてもらった。ゆらゆらと湯気が立つブレンドコーヒーを飲みながら。
僕「赤信号の中って目が赤赤しないですか?」
紳士「赤赤するよ。でも仕事だからねえ」
とか。
僕「青信号の中の紳士もあなたなのですか?」
紳士「まあね」
僕「へえー! じゃあ赤信号から青信号へと速く移動しているんですね」
紳士「足腰が大事だねえ」
とか。
僕「あの青黄色赤の三連の信号のことはどう思っていますか?」
紳士「あれね、私映ってないでしょ」
僕「はい」
紳士「いるよ」
僕「え?」
紳士「僕、あの後ろにいるから」
僕「へえー! いるんですか!」
紳士「信号全体司ってるから」
僕「信号司ってるんだー!」
などなど。マスターの顔が歪んでしまうほどの会話の盛り上がりを見せたのだった。でも、調子に乗った僕はこの後、取り返しのつかない行動に出てしまうのである。もう古くからの友人のように仲良くなったと勘違いしてしまった僕は、
僕「ハット、被ってて暑くないですか?」
紳士「暑くないね。私はいつ何時もハットを被っているからね」
僕「そっか〜。あ、もうすぐ鳩時計からクルッポッポと鳩が出てくる時間ですよ」
紳士「ほう、鳩がクルッポッポと出てくる様を見たいねえ」
と紳士が目を壁掛けの時計に目を向けた瞬間、僕は「えい」とハット紳士のシンボルでもあるハットをとってしまったのだ。
その瞬間、喫茶店中が赤い光で溢れた。ハットを脱いだ紳士の頭は目が眩むほどの赤い光を放った。眉毛から上の部分全て赤い光だったのだ。
ハットを取られた紳士はものすごい形相で、僕からハットを取り上げ、すぐに被り直し、マスターにお金を払い出て行った。僕はなんてことをしてしまったんだと後悔の念が込み上げ、目を閉じると、さっき見た赤い光が色濃く瞼の裏に焼きついていた。
そういうわけで、僕は信号に嫌われているのだ。嫌われているからといって何も文句は言えない。誰にだって、渡ってほしくない赤信号のようなものを持っている。僕はずけずけとそれを渡ってしまったのだ。
許してもらえるかどうかなんてわからないが、いつかまたハット紳士に会ったら、ちゃんと謝りたいと思っている。もらってくれるかどうかわからないが、今日買った生地の良い新しいハットをお詫びの品として渡したいと思っている。その日が来るまではちゃんとフルの赤信号を待って、横断歩道を渡ろうと思う。
平井まさあき[男性ブランコ]
1987年生まれ。兵庫県豊岡市出身。芸人。吉本興業所属。大阪NSC33期。2011年に浦井のりひろと「男性ブランコ」結成。2013年、第14回新人お笑い尼崎大賞受賞。2021年、キングオブコント準優勝。M-1グランプリ2022ファイナリスト。第8回上方漫才協会大賞特別賞受賞。趣味は水族館巡り、動物園巡り、博物館巡り。