ニホンゴ「再定義」 第12回「理屈」

ニホンゴ「再定義」第12回


 ここで真に重要なのは、彼女が自分の主張の正しさをまったく邪念無く信じ込んでいた点である。これぞ論理と理屈の一致であり、いいかえれば、かなり幅の狭い「現実の一部」を、大真面目に「現実のすべて」と思い込んでいる可能性が高いのである。

 これは脅威だ。

 その点、「理屈」というコトバにウラオモテの両義的な意味づけを施す日本語の用法は私にとって大いに納得できるもので、矛盾含みの上でこれぞ現実だ、という実感もある。そう、私がドイツで生まれ育ちながらドイツの言語・思考空間に居心地の悪さを感じていた理由の一端がこれなのだ。だから日本に来たんです、といえばいささか大袈裟に聞こえるかもしれないけど、存外そうでもない。現実の一部を無視しながら現実をハンドリングしようとする思考をなぜか周囲の皆が共有していて、そのおかしさを指摘しても「こちらの論理を上回る理屈」で反撃されてしまう、という状況に耐えるのには限界がある。

 まあ実際、日本および日本語の思考空間にも色々と現実認識の問題があるのは確かだが、ドイツの「現実無視」の流儀のほうが私との相性がより悪い、ということなのだろう。これは一概にどちらが良い悪いと断じられる問題ではない。

 もうひとつ印象深い無自覚なドイツ的「理屈」の例を、私は、東京で行われた映画『帰ってきたヒトラー』の在日外国人向け試写会で体験した。ヒット作なのでご存じの方も多いと思うが、『帰ってきたヒトラー』は世界的ベストセラーになったドイツの風刺小説で、ありていにいえば「教条的な反ナチ教育は、派手な外見ほどには実効性を持たない」という内容だ。「新しいナチズムは、ヒトラー以外の顔をしてやってくる」とはよく言われる警句だが、「もしヒトラーの顔をしてやってきても、ドイツ人はきっと再びダマされますよ!」という強烈な皮肉が本作の特徴である。一見キワモノっぽいコンセプトとは裏腹に本作は真に良質な文芸であり、映画版も傑作だった。

 さて、試写会の客にはドイツ人が一人……私はゲスト有識者だったので客ではない……居て、上映後のトークセッションで感想を求められた際、この映画は現実を正しく描いていません。このようなことはドイツでは起こりえません。なぜなら、ドイツでは学校教育課程で反ヒトラー主義の重要性について徹底的に深く学習するからです! と自信満々に(この日本語で書いた内容を三倍ほど伸ばした感じで)力説していた。私はそれを聞いて、ちげーよ! おまえのようなアホがこの映画でおちょくられてるんだよ! と思ったが、チキンかつめんどくさがりな性格なので黙っていた。神よ我を赦したまえ。

採れたて本!【歴史・時代小説#14】
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