作家を作った言葉〔第9回〕冲方 丁

作家を作った言葉〔第9回〕冲方 丁

 本稿を思案するに当たり色々とデビュー前のことを思い出そうとしたが、作家を志す上で必要とした言葉はなく、自然とそうしていたとしか言えない。が、実際に作家となる上で今も指針とする言葉はある。神話学者ジョゼフ・キャンベルの「あなたの至福に従いなさい」だ。

 至福とは、自分によってのみ見出される自分自身の究極的な「何か」だ。経済的に豊かであるとか、政治的に優遇されているとか、心身が健常であるとかいった、社会的や肉体的な安定の保証を超越した、生きる喜びそのものである。

 重要なのはそれが決してコミュニティを逸脱したり否定したりする個人主義的で快楽主義的な態度を意味しないということだ。逆にコミュニティを成り立たせてきた根本に立ち返るきっかけにもなれば、ある個人が内的な冒険を経て見出した至福が、コミュニティに清新な価値をもたらすこともある。

 いや、むしろそうした個と環境、内的なものと外的なもののダイナミックな価値の交流が至福によってもたらされるのだろうと私は考えている。

 ただ、デビュー当時はとにかく自分自身の確立に腐心するほかなく、自分がどんな成果を内的な冒険から持って帰れるかについては幸運を祈るばかりだった。ただし当時も今も、どんなに長い物語に取り組もうと、至福という財宝がどこかにあることに疑いはない。

 とはいえこの言葉には、ある種の注意書きのような別の言葉が添えられている。私がとりわけ作家を志す上で重視した言葉だ。自身の至福を追い求めるなら「十年無視されることを覚悟しなさい」。

 それでも目指すに値するものが見つかったなら、なんであれその価値を疑わず決して手放さないようにすべきだと今も信じている。

 


冲方 丁(うぶかた・とう)
1977年岐阜県生まれ。1996年『黒い季節』で角川スニーカー大賞金賞を受賞しデビュー。2003年『マルドゥック・スクランブル』で日本SF大賞、2010年『天地明察』で吉川英治文学新人賞、本屋大賞、舟橋聖一文学賞、北東文芸賞、2012年『光圀伝』で山田風太郎賞を受賞。

〈「STORY BOX」2022年9月号掲載〉

田島芽瑠の「読メル幸せ」第53回
【5回連続】大島真寿美、直木賞受賞後初の書き下ろし小説『たとえば、葡萄』独占先行ためし読み 第5回