作家を作った言葉〔第8回〕水野 梓

作家を作った言葉〔第8回〕水野梓

 忘れられない光景がある。小学校の校庭に立つ泰山木。ゆったりと枝を広げ、夏が近づくとパカッと音を立てるように大輪の白い花を咲かせた。

 ある日、その泰山木から同級生の女の子が落ちた。木登りの上手な子で落ちるのもうまく、あちこちすりむいただけで「えへへ」と笑い、まわりを囲んだ同級生たちは賞賛の拍手を送った。私も一緒に拍手をしていたが、実際は同級生の輪の中ではなく、窓ガラスに隔てられた廊下に立っているのだった。背の高い泰山木がこちらを見下ろし、睨みつけてくる。私はいつも通り、こそこそと図書室に逃げこんだ。

 暖かい光のこぼれるカウンターには、いつも司書の野田先生が座っていた。白髪に似合う銀縁眼鏡。黒いアームカバーをはめた手で、次から次へと魔法のように本を出してくれる。ズッコケのハチベエや赤毛のアン、モモ、マガーク少年探偵団……同級生の目には映らない私にとって、そこはたくさんの「友達」との出会いの場だった。

 ある日始業のベルが鳴ると、私は五年二組の教室を素通りし、そのまま廊下をわたって図書室に滑り込んだ。ついに「全日サボリ」を決めた朝。窓際のいつもの席に座るが、どきどきして本を手に取ることもできない。目の前に人の気配……恐る恐る目を上げると、そこに一冊の本があった。

「これ、面白いですよ」

 野田先生がにこにこ笑っている。今考えると、十歳の女の子に『孤高の人』は思い切った選択だったと思う。だが、私は夢中になった。ただ一人、疾風のようにアルプスの山々を踏破する単独行の加藤文太郎……なんてカッコいい!

「彼は孤独を愛した。山においても、彼の仕事においても、彼は独力で道を切り開いていった」

 そうか、と私は思った。孤独を愛することは、自分だけの豊饒な庭を耕すことなのだ。誰にも奪うことのできない、私だけの庭。言葉の萌え出る場所。私はそこで、一人ぼっちの誰かにそっと寄り添う物語を書くのだ……

 小さく息を吐きながら窓の外に目を移すと、校庭の泰山木がこちらを向いて笑っていた。

 


水野 梓(みずの・あずさ)
東京都出身。報道記者。早稲田大学第一文学部、オレゴン大学ジャーナリズム学部卒業。現在、経済部デスクとして財務省や内閣府を中心に取材、報道番組のキャスターを務める。2021年『蝶の眠る場所』でデビュー、最新刊は『名もなき子』。

〈「STORY BOX」2022年8月号掲載〉

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